「お願いベース」で乗り切れるという成功体験がある

今回にかぎらず、さまざまな有事や懸案事項についても「なんだかんだ国民が頑張って最後には困難を乗り切ってしまう」というのが日本のお決まりのコースである。たしかに国民の素晴らしい結束力や行動力のたまものではあるのだが、それは同時に、時の政権の「政治的無策の責任」を免責しつづけることにもつながっている。かれらは政治的決断もせず、徹底的に「お願いベース」で乗り切ってしまえる成功体験を重ねている。だからこそ、これからも具体的な決断はうやむやにすることが最適解になる。

これは節電にかぎらず新型コロナ対策でも同じだった。この国は世界でもコロナの犠牲者は圧倒的に少ない。しかも諸外国のように、法整備のもと大規模かつ厳格なロックダウンを行ったわけではない。あくまで国からの「お願い」に応じた国民の社会的協力によって実現した結果である。これは端的に称賛に値するものだ。国民一人ひとりの高い水準の公共心や衛生観念が如実に反映されたものだ。日本以外では到底真似できないだろう。

パンデミック中のタイムズスクエア
写真=iStock.com/Leo Cunha Media
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出口戦略を見出せなくなったコロナ対策

だが皮肉なことに、社会秩序を遵守する協調的かつ公共心豊かな国民性であるがゆえに、結果的に――日本より“従順でない”国民を大勢抱えているがゆえに――政治的決断を行わざるを得ず、最終的な結論として「コロナと共生」することを選んで社会経済活動を再開した欧米の先進各国に比べて大きな後れを取ることになった。

ボトムアップのパフォーマンスが毎度あまりにも優秀なせいで、政治の世界では「なにもしない」に慣れすぎてしまった。そのため、米英を先頭に先進各国が選びつつある「かつての生活に戻していこう」というドラスティックな方向転換が日本には選べない。法的根拠を設けるような政治的意思決定をどうにか避けようと「お願いベース」でなんとなくはじまったコロナ対策は、出口戦略を見出すことができなくなってしまった。