交渉の大任を任されたのが、政子さん。彼女は上洛し、朝廷で権勢を誇っていた卿二位という女性と話し合い、上皇の皇子、六条宮雅成親王もしくは冷泉宮賴仁親王の鎌倉下向の話を首尾よく取りまとめました。
この折衝に当たった際に、政子さんには貴族風の名が与えられました。それが政子だったのです。ですから、当たり前ですが、頼朝は彼女が政子さん、とは知るよしもなかったということになります。
時政の娘だから「時子」となるはずだが…
何で政子か、というと、彼女が「時政」の娘であったから。前述の卿二位は藤原範兼という貴族の娘で、お姉さんが範子、妹である彼女が兼子。彼女は後鳥羽上皇の乳母を務め、上皇が大きな権力を持つにつれて朝廷の有力者になったのです。
ちなみに『愚管抄』の作者の慈円は、日本には2人の権勢者(ルビを振るなら、ラスボス、でしょうか)がいる。京都の卿二位と鎌倉の北条政子だ。日本という国は女性が大切な物事を決定する国なのだ。であるから、「女人入眼の日本国だ」と述べています。
あれ? 卿二位が兼子は分かったけれど、それなら政子は「時子」じゃないの? そう思われた方、鋭い。
確かにそうなのですが、当時の貴族社会には、安徳天皇とともに入水した平清盛の正妻、時子さんのイメージが強烈だったのでしょう。だから、時子ではなく、政子を選んだものと思われます。
北条政子は、なぜ源頼朝に選ばれたのか
鎌倉時代、女性の地位が高かったことは有名です。ですから婚姻はとても重要な意味を持っていました。B家から嫁をもらったAは、B家の一員としての振る舞いも求められたのです。
例えばB家が合戦の当事者になった。客観的に見て、B家は敗北しそうだ。でも、AはB家に加勢しなければならないのです。時には生命すら度外視して。そうしないと、Aは生き延びたとしても、「勝ち馬に乗ることを優先した、武士の風上にも置けぬヤツ」との誹りを受ける。武士社会で生きにくくなるのです。
実例を挙げましょう。大江広元の息子に毛利季光という武士がいました。彼は文官である父と異なり、武人としての人生を選択し、たびたび戦功を上げました。相模の毛利荘に拠点を持ち、三浦氏の女性を妻に迎えていました。