オスマン帝国の「ハーレム(ハレム)」とは、どんな場所だったのか。九州大学大学院の小笠原弘幸准教授は「中東・イスラム世界では『後宮』を指すが、外国人の偏見と憧れによって現実離れした意味で定着してしまった」という――。

※本稿は、小笠原弘幸『ハレム:女官と宦官たちの世界』(新潮選書)の一部を再編集したものです。

ジャン・オーギュスト・ドミニク・アングル作「奴隷のいるオダリスク」
ジャン・オーギュスト・ドミニク・アングル作「奴隷のいるオダリスク」(図版=http://taotothetruth.blogspot.fr/2011/04/master-copy-3.html/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

数百人の女奴隷がいたハレムの本当の姿

「ハレム」という語は、アラビア語の「ハラム」に由来しており、もともとは「禁じられた」という意味である。そこから派生して、王宮や家庭において、よそ者の入り込めない限られた空間、すなわち「後宮」を指す言葉として用いられるようになった。

では、ハレムで働く女性は、どのようなルートを通じてハレムに入ってくるのだろうか。

彼女たちは、基本的に奴隷身分であった。奴隷として購入されるわけであるから、まず思い浮かぶのは、奴隷市場であろう。混み合う広場につくられた台の上で、奴隷を連れた奴隷商人が売り口上を張り上げ、周囲の買い手たちが競り合って奴隷を購入する……。

中東をモデルにしたフィクションでおなじみのこうした風景は、宮廷の女奴隷たちに限っていえば関係のないものだった。ハレムで働くような高級な奴隷の購入は、こうした公衆の市場ではなく、商人の邸宅で行われたからである。

ハレムに購入される女性は、容姿やふるまいについて、欠点がないことが求められる。すこしでも瑕疵かしのある奴隷は、ハレムに入ることができなかった。

たとえば、歯が欠けていると金額が安くなったし、扁平へんぺい足であれば、不吉だと見なされて買い手が付きにくかったという。

女性たちはどこから連れてこられたのか

とはいえ、奴隷商人からの購入は、数あるリクルート方法のひとつにすぎない。それ以外には、大きく分けてふたつのルートがある。

ひとつは、戦争捕虜である。

ヨーロッパと繰り広げられた戦いのなかで、捕らえられ、奴隷となった者たちが男女を問わず存在した。たとえばムスタファ二世(在位1695~1703年)は、トランシルヴァニア遠征で捕虜とした女奴隷を、母后に贈っている。また、帝国海軍や、帝国の息のかかった海賊たちは、しばしば地中海の小島や航行する船を襲い、奴隷を獲得して宮廷に献上した。