三浦氏は元来が源氏の有力従者で、頼朝にも旗挙げの時から忠節を尽くしました。そのため、幕府内で、北条氏に次ぐ勢力を築くことに成功しました。しかし、この時代、栄華は両刃の剣。北条氏に危険視され、武力衝突の末に滅ぼされてしまいます。宝治元年(1247年)に起きた宝治合戦です。

季光は、両者の戦いは北条氏の勝利、と予測しました。だからいったんは北条方の陣営に赴こうとした。けれども妻が三浦氏であることに思いをいたし、引き返して三浦勢に加わりました。結果、やはり三浦方は敗北し、季光は自害に追い込まれます。

でもそれが、武士の習いを重んじた上での、彼の決断だったのです。余計なことを付け加えると、当主を失った毛利氏は、全滅を何とか免れ細々ほそぼそと生き延びました。全国に離散した子孫の中から、安芸国でのし上がったのが、毛利元就というわけですね。

福島県相馬市で開催される相馬野馬追
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ロマンチックな要素は見当たらない

話を元に戻します。武士にとって婚姻はとても大切な営為でした。流人であって、しかるがゆえに無力だった源頼朝にとっては、それは一層、切実だったのです。

だから彼は後援を期待して、伊豆随一の武士である伊東氏の女性に恋をささやいた。これが源頼朝の最初の妻といわれる八重姫です。NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』では新垣結衣さんが演じました。

でも、この恋は皆さんご存じのように、長くは続きませんでした。当主である伊東祐親が激怒して2人の仲を裂き、頼朝の命を奪おうとさえしたのです。

こうなると頼朝は、もうなりふり構っていられません。もっとも手近なところにいる御家人、北条さんの娘さんを口説いた。こうした状況を考えると、2人の婚姻は頼朝の側の懸命な要請から生じたもの。打算の産物であって、ロマンチックな要素は見当たらないのです。結果的にそれが情熱的なものに育っていったのは、政子さんのたぐいまれな資質の賜物たまものと解釈するべきでしょう。

そもそも北条氏とはどんな武家だったのか。ぼくは軍事行動を基本に考えるべきだと主張しています。頼朝は治承4年(1180年)に伊豆の韮山で挙兵しますが、その時の軍勢の実態は、ほぼほぼ北条軍でした。

北条時政ができうる限りの兵を集めて、頼朝を大将として推戴した。そしてその兵数はわずかに50。失敗は許されない状況ですから、それが当時の北条氏の、懸命に背伸びした実力と考えてよいでしょう。