小さな豪族の出身だった北条政子は、源頼朝の死後、歴史書に「日本の2大権力者」と記されるほどの権勢をふるった。なぜそこまでの出世を果たせたのか。東京大学史料編纂所の本郷和人教授が解説する――(第1回)。
現代人は誰も知らない…北条政子の本当の名前
まずは基本的なところから参りましょう。かりにタイムマシンに乗って源頼朝にインタビューを試みたとします。
【記者】男の仕事は女性のサポートあってこそ、っていいますよね。そこでズバリお尋ねします。あなたにとって、政子さんという女性は、どういう存在なのでしょうか?
【頼朝】うん? 妙なことを申すのう。確かに私も多くの女性に支えられてここまで来たわけだが、政子などという高貴な方は全く存じ上げぬぞ。
ん? 政子という名に心当たりがない? 冗談きついですよ、鎌倉どの……。
いえいえ。これは正しいのです。研究者には広く知られたことですが、源頼朝は「政子さん」という呼称を生涯にわたって知りませんでした。政子さんの本名は他にあったのでしょうが、それは史料としては伝わっていません。
これはどういうことかというと、○子、という名は高貴な女性にこそふさわしい。皇族や上流貴族。中流の貴族にも使われたかな。でも間違いなく、武士の娘が用いて良い名前ではないのです。
では一体いつ政子さんは政子さんになったのか。
頼朝が亡くなってからかなり時間が経過して、世は3代実朝将軍の時代。実朝と御台所にはなかなか子どもが生まれない。それで幕府首脳は、京都から4代将軍を迎えることを思いついた。白羽の矢が立ったのは、後鳥羽上皇の皇子。これだけ貴い方ならば、武士たちは喜んで、自分たちのリーダーとしてお迎えするだろう。