上杉謙信には「直江津は絶対に押さえておきたい」事情があった

なぜ、謙信にとって信玄の信濃侵攻が問題だったのか。

地理的な条件を見てみると、上杉謙信の本拠である春日山かすがやま城は、日本海に面した港がある直江津なおえつにあります。越後国全体を統治するにも、日本海を使った流通の面でも、直江津は重要な拠点でした。当時は太平洋側の海上交通は波が荒く危険視されており、日本海側の海上交通が交易ルートとして重宝されていたのです。そこに面している直江津を押さえておくことは謙信にとっても非常に重要なことでした。

『「合戦」の日本史』

日本海側で作られている焼物を積み、蝦夷えぞ地(北海道)で売買する。今度は蝦夷地で仕入れた海産物などを積み込み、直江津へと戻る。さらに越後では青苧あおそという植物が作られていたため、これを積荷として載せた船が京都へと行く。青苧はのちに木綿が一般になるまでは、衣服の原材料として重宝されていた品です。

直江津を押さえれば、こうした海を通じた交易権を手中に収めることができます。謙信が亡くなったときには上杉の蔵には莫大な金が蓄えられていたとされるくらいですから、この海上交易は上杉に大きな財をもたらすものだったと考えられます。そのため、謙信としては、直江津は必ず押さえておきたいのです。

北信濃は自分の領地として確保したかった信玄

ところが、地理的にみれば、謙信の越後国(新潟県)と信玄の信濃国(長野県)は隣り合って、国境を接しています。信玄が信濃全体を領有してしまうということは、謙信にとっては目と鼻の先の距離に、信玄の勢力が迫っていることを意味しています。そのため、謙信からすれば、信濃全体はともかく国境に接している善光寺平の付近、つまり北信濃は、何としても自分の領地として確保しておきたいわけです。

戦国時代、信濃全体で大体40万石くらいの米の収穫量があったとされますが、北信濃だけで10万石はありました。つまり信濃全体の4分の1もの収穫高を持っていた豊かな地域です。

謙信が治める越後国、つまり現在の新潟県は米所として知られますが、戦国時代においては実はとても貧しい土地でした。越後国が米所として急速に発展したのは、江戸時代に入ってからの技術革新によってです。江戸初期には35万石しか穫れなかった貧しい地域が、100万石もの収穫高を誇るようになったのでした。戦国時代の当時、貧しい越後の状況を考えれば、北信濃を領地とすることは死活問題でもあったのでしょう。

対する信玄の側としても、北信濃は上杉の越後国と接しているわけですから、自分の支配下に置いておきたい。また、そもそも信玄が信濃の制圧に動いたのには、そのまま越後へと出、日本海交易のルートを確保したいという野望があったからではないかという説もあります。信玄の元々の所領である甲斐国は海がなく、満足な交易をすることができませんでしたので、それもあっただろうと私も思います。