※本稿は、本郷和人『「合戦」の日本史 城攻め、奇襲、兵站、陣形のリアル』(中公新書ラクレ)の一部を再編集したものです。
合戦にはさまざまな利害関係が存在する
合戦とはまず一対一の殴り合いのようなものから始まり、やがて武器を使い、相手との命の奪い合いになり、やがて集団対集団になっていったとします。
仮にこれをA対Bの戦いとすると、まだ一対一での戦いの場合には、AはBの命、BはAの命を奪えればいい。しかし、段々と集団対集団となった場合には、互いの集団の総大将であるAとBの命を直接に奪うということは難しくなります。
ですから、その場合、合戦はAやBの持っている財産であったり権利だったりを奪うことを目指すようになります。そうなると、一対一の殴り合いの頃にあったような、相手に対する単純な嫌悪や殺意では、戦いは起こりにくくなります。そこには集団と集団のさまざまな利害関係が存在するだろうことは想像に難くありません。それが、一対一の殴り合い・殺し合いと集団対集団である合戦との大きな違いです。
「合戦を仕掛けた側の目的」が勝敗の指標になる
合戦には何らかの目的があって、その上で、仕掛ける側がいる。仕掛ける側は目的を達成するために戦を引き起こすわけですから、それなりに用意周到な準備をしなければならない。逆に言えば、手間暇かけて準備をするということは、それだけの目的があるということです。
このとき、合戦を仕掛けた側、攻める側の目的こそが、その合戦の勝敗を決める指標になります。仮に攻める側がA、守る側がBであるなら、Aの目的が達成されれば、その合戦の勝利者はAです。反対にBはAの目的を阻止すればいい。Aの目的が達成されなければBの勝ちです。
これが合戦の勝敗を見極めるポイントなのですが、実は意外と歴史学を専門とする研究者の間でもこのことを押さえていない人が多いのです。
その例が、上杉謙信と武田信玄が約10年(1553~64年)にわたって争った川中島の戦いの勝敗に対する評価です。
そもそもなぜ、川中島の戦いが起きたのかというと、大前提として武田信玄は信濃国の制圧を目論んでいました。信玄は自らの父を追い出して家督を継いだ時点で甲斐国の平定はほぼ終えており、更なる領地を求めて、信濃国へと侵攻したのです。信玄は10年かけて信濃のほぼ全域を自分のものにすることに成功します。
ところが信玄の信濃侵攻に不服だったのが越後の長尾景虎、すなわち上杉謙信でした(謙信は何度も名前を変えています。本書では謙信の呼び名で統一します)。