小田原城は上杉謙信も武田信玄も「城攻め」に失敗したほどの、難攻不落の城だった。それを攻略したのが豊臣秀吉だ。秀吉はどんな手を使ったのか。東京大学史料編纂所教授の本郷和人さんが解説する――。

※本稿は、本郷和人『「合戦」の日本史 城攻め、奇襲、兵站、陣形のリアル』(中公新書ラクレ)の一部を再編集したものです。

小田原城
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城攻めで重要なのが「兵站」の問題

城攻めの場合、強行に攻撃を仕掛けるか、あるいは城全体を包囲して補給路を断ち、干上がらせて、相手が音を上げるのを待つという戦法を取ります。とりわけ後者はいわゆる籠城戦となるわけですが、籠城する側もこれを攻めて包囲する側も、重要になるのが兵站の問題です。

守る側からすれば、城に立て籠るというのは、後詰めとして他から援軍が来るまで耐え忍ぶということが作戦のメインになります。ときには城から出て交戦したりしながら、相手の兵力を減らしつつ、防御施設としての城を巧みに利用しながら時間稼ぎをする。そうこうしているうちに、領内の別の城から味方の軍勢が加勢に来るとか、同盟関係にある別の国の領主が援軍を引き連れてやって来るとかして、敵を追い払う。基本的にはこのような流れになります。

攻める側からすれば、本書で繰り返し述べている通り、勝利の大原則とは「戦いは数である」ということです。いかに多くの兵を揃えて、城を攻めるかがポイントになります。城攻めの場合は、通常の平地で行われる合戦と違って、少なくとも3倍、できれば5倍の兵が必要としばしば言われるところです。

逆に言えば、籠城すれば、たとえ少数の軍勢でも大軍と戦うことができるということになります。

兵站の問題をクリアした小田原城の工夫

ただ、籠城戦においては実は城内に立て籠って守る側にとっても、大軍を引き連れて城を囲み攻める側にとっても、食料や物資の補給というものが非常に大事になります。いわゆる兵站の問題です。

援軍が来るまでひたすら籠城しても結局、食料や水などが確保できなければ干上がってしまい、降伏せざるを得なくなります。他方、攻める側も連れてきた大軍を食わせなければなりません。籠城戦は得てして長期化しやすいので、やはりそのぶん、兵糧が必要になります。

ところが後北条氏の小田原城は、この兵站の問題をある工夫によってクリアすることができたのです。それは何かというと、普通、城下町というのはお城の外にできるものですが、小田原城の場合、町が丸ごと城の内側にあったのです。たとえ大軍に包囲され補給路を断たれたとしても、城内に町があり、田畑があるわけですから、再生産をすることが可能です。あとは城内の人間たちの士気さえ下がらなければ、味方の後詰めも当てにすることなく、持久戦を続けることができる。つまり非常に籠城に向いた城造りをしていたのです。城郭研究的には、後北条氏の小田原城のような城は「総構え」の城と呼ばれています。