※本稿は、戸田智弘『ものの見方が変わる 座右の寓話』(ディスカヴァー携書)の一部を再編集したものです。
寓話に学ぶ「人は何のために働くのか」
旅人が、建築現場で作業をしている人に「何をしているのか」と質問した。
一人目の作業員は「レンガを積んでいる」と答えた。
二人目の作業員は「壁を造っている」と答えた。
三人目の作業員は「大聖堂を造っている。神を讃えるためにね」と答えた。
※【大聖堂】ローマ・カトリック教会における司教区の中心になる教会堂のこと。初代の大聖堂が造られたのは四世紀頃だと言われている。
目の前の仕事の目的を考えてみる
三人とも「レンガを積む」という同じ仕事をしているのに、「何をしているのか」という質問に対する答えが異なっている。
一人目の職人は「レンガを積んでいる」という行為そのものを答えただけである。
二人目の職人は「壁を造っている」というレンガを積むことの目的を答えた。
三人目の職人はまず「大聖堂を造っている」という壁を造る目的を答え、同時に「神を讃えるためにね」という大聖堂を造ることの目的を付け加えている。
人間の行為は必ず「何かのために、何かをする」という構造を持っている。一つの行為の目的にはさらにその目的が存在する。「目的と手段の連鎖」と呼んでもいいだろう。寓話を例にとれば、レンガを積む→壁を造る→大聖堂を造る→神を讃えるという構造になっている。上位の目的が下位の目的を決めてコントロールしているのだ。
私はこの寓話から二つの教訓を読みとろうと思う。
第一に、できるだけ広く「目的と手段の連鎖」をイメージして仕事をするのが有益であるということ。一人目の職人より二人目の職人、二人目の職人よりも三人目の職人の方が有意義な仕事ができることは容易に想像できる。
ドストエフスキーは、人間にとって最も恐ろしい罰とは、「何から何まで徹底的に無益で無意味な労働」を一生科すことだと言っている。朝からレンガを積み上げ、夕方に一日かけて積み上げたレンガを壊すという仕事を想像してみよう。これは、まったく意味のない仕事である。
実際の仕事の場面ではこれほど無意味な仕事が与えられることはまずないだろう。しかしながら、その仕事が持っている意味を十分に分かっていないまま仕事をしていたり、非常に狭い範囲の「手段と目的の連鎖」しか知らされずに仕事をしたりしていることは多いのではないか。それは、囚人に与えられる拷問と五十歩百歩かもしれない。
第二の教訓は、自分の仕事は私の幸福や私たちの幸福とどうつながるのかを考えるということだ。先に述べた「手段と目的の連鎖」はどこまでも無限に続くのかというとそうではない。哲学者のアリストテレスによれば、「……のために」という目的の連鎖は「なぜなら幸福になりたいから」という目的にすべて帰結する。
たとえば、朝に洗面所で身だしなみを整えている大学生を考えてみよう。「何のために顔を洗ったり、髪をとかしたりするのか」「学校に行くためだ」「何のために学校へ行くのか」「良い仕事に就くためだ」「何のために良い仕事に就きたいのだ」という問いかけの連鎖は「良い人生を送りたいためだ」となり、それは「幸福でありたいためだ」と同じことを意味する。
同様に、会社員が現在している仕事に着目し、その目的を掘り下げていけば「良い人生を送りたいためだ」となる。そして、それは「幸福でありたいためだ」というところに行き着く。
自分がしている仕事は、私の幸福や私たちの幸福とどうつながっているのだろうか?