服を着たまま頭から浴槽に沈められた
母親と継父から受けた虐待はこの頃からさらにエスカレートしていく。
母親からは毎日のように、「お前なんか産まなきゃ良かった」「お前さえいなければ幸せだったのに」「この人殺し」「ブス」「クソガキ」「死ね」などという暴言を浴びせられ、物を投げつけられ、暴力を振るわれる。
4歳になっていた妹は、泣き虫だった。自分で転んだり、どこかをぶつけたりしたときはもちろん、目当てのおもちゃが見つからないときや、物事が思い通りに行かないとすぐ泣いた。そんな妹が泣けば、「泣かせるな!」と平手打ちを食らい、母親の怒鳴り散らす声を聞き取れず、ひとたび聞き返せば、蹴りが飛んでくる。理不尽な理由で怒り狂った母親は、それを継父に言いつけると、継父は緑川さんを浴室に連行。服を着たまま、頭から浴槽に沈められる。
食事はいつも廊下で1人。緑川さんの食事は、白米一杯ともやし炒め、もしくはカップ麺などの手間も食費もかからないものばかり。当時緑川さんは、中学2年生の標準は身長155センチ、体重48キロ程度なのに対し、130センチ・23キロで小学校3年生くらいの見た目。継父は時々、デパ地下総菜や弁当を買ってきたが、妹や母親にはあっても、緑川さんにはない。それが当たり前になっていた。
「肉体的に一番つらかったのは、浴槽に沈められることでした。私の意識が朦朧としていてもお構いなしで、すごい力で頭を押さえつけられるので、いつも『死ぬんじゃないか』という恐怖と隣り合わせでした。精神的につらかったのは、家の中で母や継父に、自分を汚物扱いされることです。家の中でも私と接するときはマスク着用が必須で、常に『お前は汚いから』と言われていました」
そんな緑川さんの唯一の救いは、母方の祖母だった。
当時60代だった祖母は、緑川さんの家の徒歩圏内に住んでいた。時々母親と継父と妹は、3人で旅行に出かけるため、その間、緑川さんは祖母宅に置いていかれた。だが、緑川さんにとっては、誰にも殴られず、食事も好きなだけ食べられ、お風呂も平和に入れる希少な時間だった。
「おそらく祖母は、私が虐待されていることは気付いておらず、純粋に孫として可愛がってくれていると思っていたので、私は家での虐待について話せませんでした。それは祖母に心配と迷惑をかけたくないという、私なりの配慮でした」
緑川さんの知る限り、祖母は祖父のDVにより離婚している。その祖父以前にも結婚していた人がいたようだが、祖母も母親も語ろうとしないため、真相は不明だ。祖母は離婚後、すぐに別の人と再婚したが、今度は祖母の妹と浮気されて離婚。
「男を見る目がないのか、ろくでもない男とばかり付き合うところは、祖母も母もそっくりです」