開催決定後に現れる「どうせやるなら派」という存在
そもそもオリンピック運動の目的とは、国や民族を超えて平和を構築するために働きかけることだ。これに照らせば、人権を軽視する中国にオリンピックを開催する資格がないのは明らかである。なのに開催に至った理由のひとつに、間接的にはステークホルダーとなる諸外国が毅然とした態度でNOと言えない及び腰があったといえる。
そしてもうひとつ、最大にして厄介な理由がある。
それはオリンピックがもたらす祝祭ムードをひそかに期待する人たちの無意識的な欲望だ。オリンピックが抱える種々の問題は理解しているものの、どうせやるならとそれらに目を瞑って開催を前向きに捉える人たちの存在である。
先に紹介した小笠原氏は彼らを「どうせやるなら派」と名づけ、オリンピックムーブメントを推し進める原動力になっていると指摘する。開催に疑問や矛盾を感じながらもその気運に便乗してオリンピックを盛り上げる、この「どうせやるなら派」こそがオリンピックを後押ししているとの指摘は、実に鋭い。
東京五輪以前にも、多くの人たちはオリンピックの構造的な問題には薄々気がついていたはずだ。にもかかわらずそれを解決するための声を上げず、いざ開催されると躍動するアスリートに拍手喝采を送る。どこかうしろめたさを抱えながらも自らがマジョリティーであることに安寧し、本質から目をそらすその態度が、結果としてオリンピックの存続に一役も二役も買っている。
この集合的無意識こそが開催に向けて肯定的なうねりをもたらす。これを根本から断ち切らなければ歯止めはかからないだろう。
招致が決まり、開催に向けての準備が始まればおのずと「どうせやるなら派」は形成される。ひとたび形成されれば集合的無意識は増幅され、開催への気運はおのずと高まってゆく。だから初期段階でその芽を摘む。くさびを打つ。どうせやるならという刹那的な思考が芽生える隙をつくらない。そうすれば気運そのものは醸成されない。
だから、招致が決まる前のいまこそ声を上げるときである。
反対の意思表明は決して今からでも早すぎることはない
札幌招致をもくろむ冬季オリンピックは、いまから8年後の2030年開催である。まだ8年もあるとのんびり構えてなどいられない。招致が検討されている段階で反対の意思を表明しなければならない。
札幌市は招致に向けた住民意向調査を3月までに行うとしている。開催都市の札幌市民だけでなく、開催が広域にわたることから北海道民も対象に含まれるこの調査は、開催側に直接NOを突きつける格好の機会である。札幌市は調査結果だけで開催の是非を決めない方針を固めてはいるものの、もし大多数が反対すればその意思を無視できないはずだ。2015年にはアメリカのボストンが2024年夏季大会を、2018年にはカナダのカルガリーが2026年冬季大会を、住民投票によって大会招致から撤退しているのだ。
もしオリンピックに反対するのであれば、道民はその意思を表明してほしい。
道民以外であっても意思を表明する方法はいくつもある。
地元の地方政治家に直談判する。パブリックコメント制度を利用する。SNSを通じて発信を繰り返したり、日常会話のなかで話題にするのも長い目で見れば効果はある。もちろん反対デモに参加するのもいい。
一人ひとりの小さな声が集まって世論は形成される。意思を明確にしない沈黙は賛意でしかない。