※本稿は、河西陽平『日ソ中立条約』(角川新書)の一部を再編集したものです。
米英ソ三国の首脳によるヤルタ会談が開かれ、同盟国ドイツが降伏し、日本の敗色がいよいよ濃厚となった1945年、ソ連の対日参戦は参謀本部、関東軍の情報部のほか、モスクワの日本大使館員や駐在武官達のなかでも、その可能性はあると考えられていたが、その時期については議論が分かれており、一部には参戦はあり得ないとする声もあった。しかしながら、市井の日本人達のなかに、日ソ開戦は避けられないと感じていた人々も存在していたのだ。
もっとも、新聞やラジオといった報道機関が声高に主張する「日ソ友好」を白々しく感じる一般の日本人が大部分であったかといえば、けしてそうではなかったようである。
5月20日にソ連へ発信された電報には、協力者「イグチ」の提供した情報として、日本政府関係者はソ連の参戦はないと確信しているほか、国民の間にはソ連が日本の対米戦を密かに援助しており、日本が首尾よく戦争から抜け出すことを手助けしてくれるという噂が広がっている、と伝えている。
要するに、一般の人々のソ連に対する態度は、遅かれ早かれ戦争する相手になると深刻に考えているものと、戦争終結のために利用のできる相手と甘く考えているものとに二分されていたわけであった。
敗戦間際の日本はソ連にすがった
それでは、対ソ交渉の矢面に立たされた外務省関係者の様子はどのようなものだったのか。
駐ソ大使であった佐藤尚武は戦後、ソ連との中立関係の維持に加えて、日本に有利な形で戦争を終結させるために、対米英和平にソ連の協力を得たいとする東京からの要請を痛烈に非難している。しかし、モロトフ(編集部註:スターリンの右腕である外交の指導者)から中立条約の不延長を通告された当時、ソ連が直ちに日本に戦争を行うとは考えていなかったようだ。条約の有効期間は5年であるから、彼は1946年4月25日の失効までに対ソ関係を改善できるかもしれないと判断したのだろう。
一方、東京の外務本省は、事態をそこまで楽観視していなかった。
NKGBの東京駐在員は5月23日のモスクワ宛て電報のなかで、日本政府がソ連の仲介によって米国と講和を結ぼうと試みている様子を詳しく伝えている。情報提供者は「イシバラ」の暗号名をもつ人物だ。彼は、この年の1月19日にNKGB東京駐在員と会談を行った際、知り合いの陸軍中将から得た話として、1944年5月以降満洲の関東軍が段階的にフィリピンや千島列島に移送されていること、フィリピンの陥落後、ソ連が満洲に侵攻する危険性が高まっていることを報告している。そして「イシバラ」は、日本陸軍だけでなく外務省にもパイプをもつエージェントであったことが分かる。

