広田の発言はソ連側に筒抜けだった
重要なことは、広田や原田の発言内容がOGPU(合同国家政治保安部)特別部を通じてスターリンに報告されていたことである。しかも、スターリンは広田の発言に下線を引いて強い警戒感を露わにしていたのであった。おそらくこの報告書に目を通したときから、スターリンは広田をソ連に友好的でない危険な人物と認識していたであろう。
このことを鑑みると、1945年の対ソ交渉の担当者として広田に白羽の矢を立てた当時の日本の選択は、致命的に誤ったものではなかったか。もっとも、広田や原田達の発言がソ連側に筒抜けになっていた事実は近年になって分かったことであり、東郷外相を含め、最高戦争指導会議の構成員は知る由もなかったであろうが――。
広田は6月3日、箱根の強羅ホテルにマリク大使を訪ねた。米軍による連日の空襲は日ごとに激しさを増し、駐日ソ連大使館員も東京から一時的に避難しなければならなかったのである。
マリク大使にはっきり物を言えず…
それはともかく、3日と4日に行われた両者の会談は不首尾に終わった。
というのも、広田はソ連の対日友好的態度を引き出そうとするばかりで、日本が望むソ連の対日参戦の防止、好意的中立の維持、そしてソ連を仲介とした対米英和平という目的を明確にしなかったためである。
結局、両日にわたって広田は「日ソ関係の増進を切望する」などと、曖昧な態度に終始するのであった。マリクをはじめとして、ソ連側は日本の内情、ソ連への要望は諜報活動を通じて十分に把握していたが、既にヤルタにおける米英両国指導者との秘密協定で対日参戦を決定していたことから、マリクも広田の話を真剣に受け取ろうとはしなかった。
両者の会談は6月24日、29日に再開され、舞台は東京のソ連大使館に移された。
しかし、24日の広田の発言は箱根の会談でなされたものと同様、論点を明確にしないもので、広田とマリクは腹の探り合いに終わった。
ソ連の参戦は阻止できなかった
これでは埒が明かなかったため、29日の会談では広田からマリクに三つの提案がなされた。すなわち、①満洲国を中立化し、日本軍を満洲国から撤退させること、②ソ連が石油を供給してくれることと引き換えに、日本のソ連領海での漁業権を放棄すること、③ソ連が関心をもつあらゆる問題の解決を検討することの三点である。
要するに、これらの提案と引き換えに、ソ連の対日参戦防止を含む一連の要求をソ連に吞ませることが日本の目的であった。しかしながら、これらの提案はヤルタ会談で決められた、対日参戦と引き換えに得られる権益と比べると遥かに小さいものであり、ソ連側にとっては問題にならなかった。日本側の提案は検討に値しないということで、ここに広田・マリク会談は頓挫したのである。



