「領土一部割譲もやむなし」と覚悟

その「イシバラ」によると外務省関係者は、ソ連に和平交渉の仲介を行ってもらうためには、日本はソ連に南樺太、千島列島を譲渡しなければならないと考えていたという。また関係者のなかには、ソ連に北海道を譲渡することについて話しているものもいるほか、朝鮮と満洲の独立をおそらく認めなくてはならなくなる、と判断しているものもいたという。

北海道については、1945年8月16日にスターリンがトルーマンに宛てた書簡のなかで、釧路と留萌を結んだ線の北方をソ連に割譲することを要求し、これを拒否されたという有名な一件がある。だが、当時の外務省の内部には、米国との和平交渉の仲介をソ連にしてもらうためには、日本本土の領土一部割譲もやむなしと考えていたものもいたのだ。

ポツダム会談でのイギリス首相アトリー、トルーマン米大統領、スターリン
ポツダム会談での(右から)イギリス首相アトリー、トルーマン米大統領、スターリン、1945年7~8月(写真=National Museum of the U.S. Navy/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

すなわち、このことは、ソ連に仲介を依頼することは現実的に厳しく、日本側としてもかなりの譲歩をしなければならない、という認識が外務省内に存在していたことを示している。とはいえ、日本側が大胆な譲歩をすることによって、ソ連側の態度を宥和ゆうわ的なものにし、対米交渉において日本に協力的にさせられるのではないかという期待があったことも事実である。鈴木内閣で外相に就任していた東郷茂徳もその一人であった。

交渉役は元駐ソ大使の広田弘毅

その東郷外相がイニシアチヴをとり、最高戦争指導会議の承認を受けて始まったのが、ソ連を仲介として対米英戦争を終結させるための交渉であった。

終戦時の外務大臣・東郷茂徳
終戦時の外務大臣・東郷茂徳(写真=『時代の一面』/PD-Japan-oldphoto/Wikimedia Commons

ここで、日本側の交渉責任者として選ばれたのが広田弘毅だ。駐ソ連大使の経験があることが抜擢の理由の一つとされるが、果たして広田に対ソ交渉を委ねるという選択肢は妥当なものだったのか、疑問が残る。

大使としてモスクワに在った頃の広田の対ソ認識を想起されたい。満洲事変に先立つ1931年7月1日、現地の大使館内で広田、笠原幸雄陸軍駐在武官と原田敬一陸軍少将の間で極秘の会談が実施されている。

このとき広田は原田と同等か、それ以上にソ連に対して強硬な態度を示し、日本はいつでも対ソ戦争を開始できるように準備すべきであるとまで述べた。