東京五輪は日本人「みんな」で招致したわけではない
映画監督の河瀨直美氏は、昨年末に放送されたNHKの番組のなかで「日本に国際社会からオリンピックを7年前に招致したのは私たち」であり、「(開催決定を)喜んだし、ここ数年の状況をみんな喜んだはず」と口にした。
この「私たち」や「みんな」には、なれなれしく肩に手を回してくるような、ぬめりのある暴力性が潜む。昨年の東京五輪を、力づくで成功したことにしようとする権力側の恣意がまとわりついている。もしあなたにオリンピックに反対する意思があり、「この手」に抱き込まれるのに抵抗を覚えるのであれば、それを内に秘めるのではなく広く公に知らしめてほしい。
札幌五輪の概要案を一読すれば、オリンピックを、人々の力を結集して社会に健康と活力をもたらす絶好の機会だと捉える考えが読み取れる。SDGsの目標年である2030年にかこつけて、その先の未来を展望する大会にするというビジョンも、具体性に欠ける。既存の施設を利用することで施設整備費を、原則的に税金を投入しない計画で大会運営費を抑える旨が記されているが、これが絵空事にすぎないことは先の東京五輪を振り返れば明らかである。
商業主義にまみれたオリンピックはすでに「平和の祭典」という存在意義を失っている。
そんなオリンピックなんか、もういらない。