人間は本能が壊れた哺乳動物である

なぜ理性と教養が邪魔をしなければ、人間はサルより劣ると考えるのか。その点をはっきりさせておきましょう。話はわりに簡単です。人間は本能が壊れた哺乳動物である、という私の仮説をまず出発点に置きます。一般に、哺乳動物は、自らに与えられた欲望に対して、それらを抑制する本能を具備していると考えられます。生き物に最も主要な欲望の一つ、食欲も、例えば満腹したライオンは、目の前を格好の獲物である子鹿が通っても、目もくれません。性欲でも、雌にその準備ができていなければ、雄は野放図に雌を求めることはしません。同族と喧嘩はします。例えば雌をめぐる雄同士はしばしば、相手に傷を与えるほど激しい争いをすることがあります。しかし、相手が負けたというサインを出すのがきまりとは言え、相手を殺すようなことはまずありません。

あるいは、雌数頭とその子供たちからなるライオンの家族の長に、流れ者の雄が家長の地位を乗っ取ろうと挑戦することがあります。流れ者が勝利を収め、これまでの家長を放逐して、その家族の長になったとき、その雄が、家族のなかで育てられつつある子供を食い殺すようなことも報告されています。子育て中の雌は発情が遅れるので、新しい雄はなかなか自分の種を残す機会が訪れないからです。つまりごく小規模な同族殺戮の例は、動物のなかにも見られます。

ライオン
写真=iStock.com/Cheryl Ramalho
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「人間性」への歯止めとしての宗教

しかし人間はどうでしょう。一発の爆弾で、10万人を超す同じ人間の仲間を、一瞬に殺すことも平気で、あまつさえそこに「大義」なるものを主張することさえ厭わない。生き物にとって最も大切なことである、子孫を残す行為でも、本来の目的には適わない、小児から獣までをも欲望の相手にし、そこにも「人間性」を認めるべき、と主張する。ただ楽しみだけのために、狩りや釣りで、他の生き物の数多くの命を、種の絶滅寸前まで殺戮することさえ平気です。本来なら本能が抑制しているはずの欲望の「過剰な」発揮を、人間は「人間性」という「大義」を持ち出すことによって、正当化しているのではないか。そんな見方も成り立ちませんか。

では、人間はそうした「人間性」なるものに、一切歯止めをかけてこなかったか、と言えばそんなことはありません。原始社会においてさえ人間は、人間を超えるものの存在と、その存在が求めると思われる欲望の抑制習慣を作り出してきました。それは社会制度としての宗教に発展し、そこから放恣ほうしな欲望の発散を防ぐ方途が、社会のなかに構築されました。