なぜ教養が必要なのか。東京大学名誉教授の村上陽一郎さんは「人間は本能が壊れた哺乳動物だ。一発の爆弾で10万人を殺すことも平気で行う。だが、教養は人間の野放図な欲望の発揮を慎む原動力になる」という――。

※本稿は、村上陽一郎『エリートと教養 ポストコロナの日本考』(中公新書ラクレ)の一部を再編集したものです。

ダブリン大学トリニティ・カレッジ
写真=iStock.com/Lukas Bischoff
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教養という言葉が使われるときの「胡散臭さ」

教養について、私は単独の書物も含めて、すでに色々と書き散らしてきた、という思いがあります。たしかに、私は大学の教養学部というところを卒業しており(したがって、頂いた学士号は「教養学士」といういささか面映ゆいことになっています)、40年を超える教育現場も、その半分以上が教養学部という空間でありました。つまり学生時代も加えれば、実に人生の半分を優に超える時間を、教養学部で過ごしたことになります。教養について語る義務は常にあるかもしれない、とも思います。他方、何か新鮮な内容を語ることができるか、はなはだ心もとないのですが、とりあえずは、あまり問題のないところから整理をしておきましょう。

先に、大学から教養学士を頂いて「面映ゆい」と書きました。なぜ面映ゆいのか。教養学などという学問領域はないのに、それが学士号になっている、という変則事態が気になることが、その理由の一つでもあるのですが、そもそも「教養」という言葉が世間で使われるときの、ある種の「胡散臭さ」とでも呼びましょうか、それが「面映ゆさ」の主因でもあります。その「胡散臭さ」は、インテリとかエリートといった言葉にも、往々にして付きまとう感覚でもあります。

理性と教養が邪魔しない限り、人間はサルにも劣る

その感覚は、一方では、インテリやエリートでない大衆からのやっかみ半分の揶揄であると同時に、インテリ層に属する人々が往々にして大衆に対してとる優越的な姿勢、今風に言えば「上から目線」(私はこの言い方は使わないのですが)が、社会のなかに紡ぎだす違和の然らしむるところに違いありません。本来砕けた、俗に落ちてよい場面などでなお、お高く留まっている人によく浴びせられる「理性と教養が邪魔して」というフレーズは、そういう違和を率直に表したものでしょう。後で述べるように、実は私は、理性と教養が邪魔しない限り、人間はサルにも劣ると本気で信じていますが。

大衆の反逆』という名著で知られるオルテガ・イ・ガセット(1883~1955)は、エリートとは、大衆よりも自分が優れていると自任するような輩ではなく、大衆よりも自分に対してより重い義務を課す人間である、という意味のことを述べています。それはまさしくその通りで、教養も積めば積むほど、自らに厳しくなる、と考えるべきだと思います。