道徳の基盤を宗教から切り離し、理性に求めたカント

宗教は、無神論者にとっては、旧き人間たちが勝手に創出したもので、人間を超える何者かからの神秘的な啓示などを、宗教の根拠にすることは認めないでしょうが、それでも人間社会で、先に述べたような意味で、宗教が果たした、あるいは果たしつつある役割を、頭から否定することはないはずです。つまり、もうこの辺で、この言葉を使ってもよいと思いますが、基本的に「道徳」、あるいは面倒ですからここではほとんど同義とみなした上で、「倫理」は、人類史上、長らく宗教に依存してきた過去があります。モーゼの十戒は、その目覚ましい例の一つでしょう。

西欧近代の罪、あるいは功績の一つは、こうした状況に異を唱えることでした。カントが宗教に対してどのように考えていたか、という問題は、一筋縄ではいかないので、ここでは立ち入りませんが、カントが少なくとも哲学上何とか達成しようとひたすら努力をしたことの一つは、道徳の基盤を宗教から切り離し、それを人間の理性に求めることでした。

カントの試みが真に成功しているかどうか、哲学、倫理学の立場に立てば、厳しい吟味は必要でしょう。しかし、ここは、それをする場ではありません。少なくとも一般的には、現代社会は「世俗化」された社会、言い換えれば宗教に依存しない社会ですから、倫理や道徳の基盤を、宗教に求めず、人間理性に求めることは、決して不自然でも、不当でもないはずです。

聖書に置かれた女性の手
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教養があることは、「慎み」があること

というわけで、教養はさておいて、「理性(が生み出す道徳的命令)が邪魔をしなければ」人間はサルにも劣る、という主張の合理性は、こうした議論からも裏付けられると思います。

そして「教養」という概念の少なくとも一部は、ここで言う「理性の戒め」を実行するための根源として働くと私は考えています。「教養ある」ということは、しばしば「知識豊かな」と同義と考えられがちですが、私は、それは事の本質ではないと思います。むしろ、前述の議論を踏まえたうえで、ごく日常的な場面に引き戻して考えれば、「教養がある」ことの意味の一つは、何事にも「慎みがある」ということなのではないでしょうか。野放図な欲望の発揮を慎む(ことによって、理性が命ずる道徳律をも遵守しようとする)ための原動力として教養を考えることは、間違っていないと私は考えます。そしてこの「慎み」は、宗教を起源とする道徳や、理性の厳しい作用の結果としての倫理とは少し違った、より広い次元での、欲望の抑制装置に付された名前であるように思われるのです。