2020年夏、市川さん(80代)は自宅で亡くなった。市川さんは75歳の時に「大腸がん」と診断され、「余命3カ月」と告知された。しかし、それから7年7カ月、主に自宅で闘病生活を送った。最期まで支えつづけた同い年の妻が、介護の日々を振り返る――。(第9回)
市川さんの妻。ご主人が亡くなり、「ネイルをする余裕が出てきた」と話す。
市川さんの妻。ご主人が亡くなり、「ネイルをする余裕が出てきた」と話す。

「何とかご主人を言いくるめて、連れてきなさい」

始まりはトイレの便器に、血のような色が残っていることに気づいたことだという。

「主人に聞いてみると、『痔』だと言うんです。健康そのもので生きてきた人だから、病気を疑わなかったみたい」と、妻。

夫の市川さんは、「俺は健康だ」の一点張りで、会社を定年退職してから健康診断も受けていなかったという。だが妻は実兄を大腸がんで亡くしており、引っかかるものがあったようだ。自宅近くのかかりつけ医に相談すると、「何とかご主人を言いくるめて、ここに連れてきなさい」と言われた。

「健康診断を受けたいんだけど、心細いから一緒についてきてほしい」

妻はそう頼み、かかりつけ医のいる診療所に夫を連れていくことに成功した。

「市川さん、旦那さんも来たのか。ちょうどいい。旦那さんも検査しましょう」

医師や看護師が夫を取り囲んだ。「俺はなんでもないから大丈夫ですよ」と夫は抵抗したが、「まあまあ」となだめられて、あっという間にさまざまな検査が進められる。

大腸がんで逝った実兄のレントゲン写真を思い出した

夫が検査を受けている間、妻は外の待合室にいた。

しばらくして呼ばれ、妻が診察室に入ると、テレビのような画面に大腸の写真がいくつも張り出されていたという。そこには点々と白い影が映っていた。妻は、大腸がんで逝った実兄のレントゲン写真を思い出し、息を飲んだ。

医師が夫に向かってこう言った。

「市川さん、これは大腸がん。即手術しないとダメだ」

夫はびっくりして、すぐさま言葉が出ない。

「いや、今日は女房の付き添いで来て……」

そう言うのがやっとだった。

「ついでに来て病気が見つかってよかったじゃない。命は一つしかないんだから。A病院とB病院、C病院の中でどこがいいかな。すぐに紹介しましょう」

つとめて冷静な口調で医師は説明する。

「……1日か2日、考えてさせてください」

夫が言うと、医師は首を横に振る。そばにいた妻が「先生、A病院でお願いします」と申し出た。自宅から一番近かったからだ。医師はその場で受話器をとり、A病院に連絡し、2日後に受診の予約をとった。