仏教の堂塔が立ち並ぶ景観は寺院そのもの
明治維新を迎える以前の鶴岡八幡宮寺を、門前の宝戒寺の住職だった静川慈潤の、明治45年(1912)の証言(『神仏分離史料 第三巻』より)にしたがって歩いてみると——。
三ノ鳥居を越え神橋をわたると左右に「放生池」がある。現在は源平池と通称されているこの池は、もとは捕まえた魚などを放って仏教の不殺放生の教えを表すものだったのだ。
池をすぎると中央寄り左に「仁王門」が建ち、門をくぐると左に「護摩堂」があって「五大尊像」が置かれ、その奥の「輪蔵」には源実朝が中国から取り寄せた「元版一切経」が収蔵され、「四天王像」も安置されていた。
護摩堂と向き合って右側には大きな「多宝塔」が建ち、その少し東南に建つ「鐘楼」には、正和5年(1316)の銘がある大きな梵鐘が釣られていた。
多宝塔と鐘楼の東北には「薬師堂(本地堂)」があって、「薬師三尊像」と「十二神将像」が鎮座。そして正面の大石段を登ると、本宮(上宮)の本殿前の右手には「六角堂」があって「聖観音像」が祀られ、左手の「愛染堂」には「愛染明王像」が置かれていた。
また、境内裏手の御谷とよばれる場所には、鎌倉時代には二十五菩薩にちなんだ二十五坊、つまり神社に奉仕する供僧や、そのトップである別当の宿坊が並んでいた。彼らは神主よりも地位が高く、江戸時代にも十二坊はあって、鶴岡八幡宮寺の庶務を取り仕切っていたのだ。
なぜかホームページには、個々の建物の説明がない
いわば鳥居や社殿こそあっても、その景観はほとんど仏教寺院のものだった。
境内に建ち並ぶ仏教の堂塔の数々は、実は、江戸時代の絵図には細かく描きこまれていて、たとえば享保17年(1732)の境内図などは、鶴岡八幡宮の公式ホームページにも掲載されている。だが、“神社のホームページ”には、個々の建物の説明は記されていない。