「あなたのせいで死ぬ人が出たらどうする」がキラーフレーズ

日本は他の先進国と比べて格段に低い陽性率で推移しているにもかかわらず、コロナへのビビりっぷりは世界屈指である。ゆるゆるの対策に加えて罰則規定もほぼないというのに、人々は律義にマスクを着け、ワクチンを打つ。そうした際の大義名分は「公衆衛生を考えて」や「大切な誰かを守るため」、「思いやりワクチン」などだ。

そんな日本人に対してもっとも効果のあるフレーズは「もし、あなたの身勝手な判断や行動のせいで死ぬ人が出たらどうするのだ」である。これを言われると、大抵の人は何も反論ができない。少しでも反論しようものなら「人の命をなんだと思っているのだ!」と即座に返り討ちをくらってしまう。

本当は自分が助かりたいだけなのに、「社会のため」「みんなの暮らしを守るために」といった美辞麗句を持ち出し、理不尽なくらいに命を尊重する。これは日本人が子どもの頃から刷り込まれてきた「死生観」といえるものだ。

「現実的に考えるなら、『命のトリアージ(選別)』は必要である」などと発言しようものなら、「老人の命を軽く見るのか!」と怒られてしまう。「そうじゃないでしょ、寿命が来たんですよ」などと丁寧に説いても、「オマエは人殺しだ」とまったく聞く耳を持たない。そして人工呼吸器やECMOなども駆使し、最大限の延命治療を90代の老人に対しておこなう。とにかく「生きている」ことが最重要であり、QOL(生活の質)は問われない。

職を失う人、精神を病んで自殺する人への無配慮

先ごろ日本経済新聞で公開された「円城寺次郎記念賞 受賞者論文 対コロナ、各国の価値観影響」という記事において、論文執筆者である仲田泰祐・東京大学准教授は次のように文章を始める。

〈2020年12月から、感染症対策と社会経済活動の両立に関する研究をしている。標準的な疫学モデルに経済活動を追加して様々な分析をすると、感染症対策と経済は単純なトレードオフ(相反)の関係にはないことが見えてくる。〉

そして「累計コロナ死者数と経済損失」(「経済損失」のパーセンテージをヨコ軸、「10万人あたりの累計死亡者数」をタテ軸に置いた散布図)という国別のデータを示しながら、こう続ける。

〈「コロナ死者数を1人減少させるためにどの程度の経済的犠牲を払いたいか」という試算をすると、地域間で大きな違いがあることが見えてくる。日本は約20億円、オーストラリアは約10億円で、米国の約1億円、英国の約0.5億円よりも高い。地域でも違いがあり、東京都・大阪府では約5億円だが、鳥取・島根両県では500億円以上だ。仮に1世帯の年収が500万円とすると、死者数を1人減らすために東京・大阪では年収約100年分、鳥取・島根では1万年分以上の犠牲を払いたいという価値観といえる。〉

この指摘に対しては「対策をそこまでしたからこそ、死者数を抑えることができたのだ」という反論が寄せられるだろう。だが、そうした反論をする人々は、過剰な対策や自粛の蔓延によって職を失ったり、精神を病むなどして自殺したりした人への配慮がない。あくまでも「コロナで亡くなった人」の命にのみ関心があるのだ。