本能寺の変で織田信長が亡くなったとき、明智光秀をいち早く倒したのは備中高松城(現在の岡山県)を攻めていた羽柴秀吉だった。3万人を4日間で100キロも動かした「中国大返し」は、なぜ実現できたのか。城郭考古学者の千田嘉博さんは「近年の発掘調査で、秀吉が街道沿いにエイドステーションを完備していたことがわかってきた」という――。

※本稿は、亀田俊和、倉本一宏、千田嘉博、川戸貴史、長南政義、手嶋泰伸『新説戦乱の日本史』(SB新書)の一部を再編集したものです。

豊臣秀吉肖像、一部(高台寺所蔵)
南化玄興賛(高台寺蔵)
豊臣秀吉肖像、一部(高台寺所蔵)(作=狩野光信/PD-old-100/Wikimedia Commons

秀吉を天下人にした「超高速の強行軍」

天正十年(一五八二)六月二日、本能寺の変で織田信長が亡くなりました。謀反したのは信長の重臣のひとり明智光秀です。このとき信長の家臣団のなかで、中国地方で毛利氏との戦いを担当していた羽柴秀吉は、毛利方の清水宗治が守る備中高松城を包囲中でした。

高松城の水攻めとして有名です。そこに、本能寺の変の報告が届きました。光秀が毛利氏を味方につけるために放った密使が、手違いで秀吉の陣に紛れ込んで捕縛され、事態が発覚したという説もあります。

秀吉は、ただちに毛利氏と和睦を結び「中国大返し」と呼ばれる超高速の強行軍で畿内に引き返し、山崎の戦いで光秀を破ったと言われています。この勝利で秀吉は信長の後継者としての立場を固め、天下人への道を歩む転機になりました。

秀吉の勝利と栄光への道筋を開いた中国大返しは、戦国時代の奇跡とされてきました。備中高松城攻めの陣を払って畿内を目指してからわずか四日で、秀吉は自らの拠点である姫路城に到着。ここでしばし兵を休ませて畿内の情勢を調べ、秀吉は山崎の戦いに臨みました。

高松城から姫路までは約百キロ。率いていた軍勢は、約三万と言われています。なぜこれほどの大軍を率いての高速移動が可能だったのでしょうか。「奇跡」はなぜ実現したのか。それは戦国・織豊期の大きな疑問のひとつでした。