ところで、東日本大震災直後から、別の相田作品がインターネットで紹介されていたことはあまり知られていない。ツイッターやブログを介して人々の共感を呼んだのだ。それは「うばい合えば」という詩だ。

   うばい合えば
   足らぬ
   わけ合えば
   あまる

相田氏は「地震と津波のあと、食料や飲料水の買い占めがありましたね。その際に若者が発信したようです。幸い、大きな略奪や暴動はなく、日本人の秩序の良さが諸外国から称賛されましたが、その陰で、この詩が広まっていたというのは意外でもあり、うれしくもありました」と顔をほころばす。

この言葉はその後、多方面で使われた。美術館の厚意で、義援金を募る箱に貼られたり、被災地でボランティア活動に汗を流す人たちのTシャツに刷り込まれたりした。相田みつをの作品が、聞く、読むだけでなく、書として見るということに大きな意義を持つことに視点を置いたからかもしれない。

「今回の大震災だけでなく、95年の阪神・淡路大震災、2004年の新潟県中越地震の際にも父の作品を求める声が相次ぎました。被災地からの要請に応え、現地でミニギャラリーを開催。あるいは日めくりのカレンダーを仮設住宅に届けたりしたものです」

相田みつを美術館のオープンは、阪神・淡路大震災の翌年の96年9月のことだ。被災から1年半が経過した時期にもかかわらず、当時はまだ銀座にあった美術館に足を運ぶ見学者には大阪や神戸の人たちが少なくなかったという。

また、震災ではないが、97年に山一証券が自主廃業したときにも、多くの元社員が来館しているのだ。奥さんに連れてこられた年配の男性は、最初こそ茫然自失の様子だった。しかし1時間、2時間と相田みつをの書を眺めているうちに顔に赤みが戻ってくる場面を相田氏は覚えている。

「相田作品は、いろんな節目で思い出されるようです。思いもよらぬ天災で大変な思いを強いられたり、仕事に挫折して、心身ともに追い詰められたりしたときに、ふっと気がつき、思い出すのが父の作品かなという気がします」