当時、そして発災前まで、金子みすゞの代表作といえば「私と小鳥と鈴と」だったと矢崎氏はいう。それは、鳥も鈴も自分自身も、あるがままに見つめた作品である。

   私が両手をひろげても、
   お空はちっとも飛べないが、
   飛べる小鳥は私のように、
   地面(じべた)を速くは走れない。

   私がからだをゆすっても、
   きれいな音は出ないけど、
   あの鳴る鈴は私のように、
   たくさんな唄は知らないよ。

   鈴と、小鳥と、それから私、
   みんなちがって、みんないい。

矢崎氏は「2つの詩は同じことをいっています。『私と小鳥と鈴と』は、実は最後の一行前がもっとも大事。みすゞさんのまなざしが変わっている。つまり、鈴、小鳥、私の順でしょう。鈴も、小鳥も、全部大切なんです。『こだまでしょうか』も『遊ぼう』と問いかける仲間がいないと成り立ちません。常に相手を優先するということです。あの詩を心にとどめた人たちは、それに気づいたんですね…」と話す。

生まれ故郷の山口県長門市にある「金子みすゞ記念館」。

CMの影響は絶大で、記念館の入館者数が、大震災後2カ月の5月10日、開館8年で延べ100万人を突破した。JR下関駅からだと山陽本線回りで1時間45分、日本海に沿って走る山陰本線を使うと2時間という場所の不便さを考えれば、かなりの数である。また、記念館では大震災直後から、被災地の子どもたちに、みすゞの童謡集や絵本を贈る活動も続けている。

JR仙崎駅前から記念館の前を通り、みすゞの眠る寺院に続く「みすゞ通り」は意外なほどさびれている。昼日中からシャッターを下ろした店は、もはや営業していない。かろうじて記念館に人だかりがするだけだ。

記念館には20歳頃まで過ごした書店「金子文英堂」が再現されている。

ここは、みすゞが20歳まで過ごした実家の金子文英堂を忠実に再現している。表通りに面した書籍・文具売り場の横を抜けると本館になる。そこで直筆の原稿や書簡、展示パネルに見入る人たちは、静かな時間のなかで、それぞれの金子みすゞを偲んでいた。

「3.11前は、金子みすゞを詩人として見ていた人が多かったと思います。それが、ここにきて彼女の人となり、生き方そのものに魅かれて来館する人たちが増えました。ある男性は、みすゞの詩に出会って、部下に対する言葉遣いが変わったといいます。いつもきつい調子で叱っていたのが、やさしい声をかけられるようになったと。すると、すなおな返事が返ってくる。それが“こだま”なんですよ」(矢崎氏)