「ふつうの小学校生活」は家庭環境と居住地域で異なる
学校教育と親和性の高い両親大卒層(大卒者数2)は日本中の小学校に均等に住んでいるわけではないので、学校間格差も大きい。両親大卒割合が90%の小学校がある一方、0%の学校も同じ国内に存在し、この割合は各学校の平均的な学力と一定の相関関係がある(係数0.57)。
98%の児童は公立校に通っているので、これらは一部の国私立校だけが恵まれているという話ではない。そう、標準化された制度下における公立小学校であっても、社会経済的文脈は学校によってまったく異なり、公立学校間でも明確な学力格差があるのである。「この学校の子供たちは勉強がよくできる」と言うとき、それは間接的に両親大卒割合が高いという「生まれ」を称揚している可能性があるのだ。
小学校で確認できる格差は学力だけではない。詳しくは前掲の拙著『教育格差』で示しているが、個人間・学校間で、親の子に対する大学進学期待、習い事、通塾、学習努力(時間)、メディア消費時間、そして、親の学校関与について、格差を確認できる。制度として標準化されていても、どんな「生まれ」の家庭に育った児童が集まっているかによって、まったく異なる「ふつうの小学校生活」があるのである。「生まれ」(家庭環境)と居住地域によって相対的に有利・不利な教育環境が地層のように細かく折り重なっているのだ。
義務教育は「学力格差」を縮小できていない
児童の「生まれ」と関連する様々な学校間格差という現実の前では「機会均等」は幻想に過ぎない。実際のところ、「扱いの平等」に基づく現在の制度では学力などの格差を埋めることはできていない。これは中学校に進学した後も同様だ。この点は、政令指定都市であるさいたま市以外で実施された「埼玉県学力・学習状況調査」のデータで確認できる(調査の詳細は、本書の19章)。公立小中学校に通っている小4から中3までの子供たちを毎年追跡し、同じ物差しで測ることで学力変化を明らかにできる学力調査だ。
親の学歴は調べられていないので「家庭の蔵書数」を文化的資源の代理指標として、小学校6年から中学校3年までの同年齢の集団を分析すると、まず、6年生のときに国語の学力格差がある。そして、家庭の蔵書数別のどの層であっても中学1年、2年、3年と前年より学力を向上させているが、格差そのものは大きくも小さくもなっていない。教科を数学にしても、他の年齢集団や異なる対象学年(たとえば小4~6)にしても、大まかな傾向は変わらない。
学力格差は平均的には拡大も縮小もせず、維持されている。先を走っている集団と同じ速度で走っているだけでは、いつまで経っても追いつくことはできない。格差が平行移動しているだけなのだ。