イオングループはなぜ成長できたのか。それには創業者で現・名誉会長の岡田卓也の生家「岡田屋」の“ある家訓”が大きく影響している。『イオンを創った男』(プレジデント社)の著者である東海友和さんが解説する――。

※本稿は、東海友和『イオンを創った男』(プレジデント社)の一部を抜粋・再編集したものです。

イオン
撮影=プレジデント社書籍編集部

大正時代の大不況で生まれた家訓

イオンの前身「岡田屋」には、「上げに儲けるな、下げに儲けよ」という家訓がある。

この家訓は大正9年、第一次世界大戦後の大暴落のときにできた。

この年の3月に株が暴落したことに端を発し、米や綿布生糸の商品市場は閉鎖、各地の銀行は取り付け騒ぎ、その当時に日本の主力産業であった紡績も全国の工場のほとんどが生産停止に追い込まれるなど、日本中が大恐慌に襲われた。

まだ呉服店であった岡田屋の蔵には、冬のうちに仕入れた夏物商品がいっぱいあった。当時の呉服店は、金融業のようなものだったという。

夏に冬物を産地から仕入れ、冬には夏物を土蔵いっぱいに仕入れ、近隣の農村のお客様に掛け売りをし、農作物が収穫されお金にかえた後、その掛け売り分を集金していた。

そのため、当然、蔵には生糸やら綿やらの在庫が山のようにあった。

岡田卓也の父・惣一郎はじめ番頭たちは頭を抱えた。

「このまま持っていたらどうだろうか。半値で売ったらどうだろうか」

右往左往していると、病床にあった祖父の岡田五世惣右衛門がみんなを一喝して「蔵の商品は全部タダになったと思い、半値で売ってしまえ。タダみたいな商品を値上がりするまで待つなんて小売業のすることではない。上げで儲けんでもええ、下げで儲けるんや」といったという。

そんな生易しい暴落ではないと見て、「今年入った丁稚小僧にでも好きな値段をつけさせて、売ってしまえ」と。

不況でこそ、儲けるのが本当の商人

そのときは、まだ一般消費者の購買力がさほど落ちてはいなかったため、在庫商品を安く売り切り、そこでできた資金でより値下げをして販売されている商品を仕入れ、さらに売るという、「暴落大売出し」をした。

その結果は大成功で、大正9年の四日市市一般会計歳出が28万5911円だったのに対し、岡田屋呉服店の利益(売上ではなく、仕入代金、諸経費を差し引いて残った金額)が25万円だったというのだから、いかに大盛況だったかわかるものだろう。

それが、「上げに儲けるな、下げに儲けよ」という、「大黒柱に車をつけよ」とならぶ岡田家の家訓となった。

「あまり買うな」の耳打ちで周囲を観察

この家訓に基づいて、岡田卓也が社長となってからの岡田屋も大きく儲けたことがある。

昭和26年の年末に近いころ。名古屋の大手問屋「滝定」で、荷開きがあった。荷開きが始まるとすぐに上得意先であった岡田のところに、番頭がすっと近寄ってきて、「きょうはおさえめに」と耳打ちをしてすぐに離れていった。

「あまり買うなとはどういうことだろうか」

見ると、まわりでは百貨店や小売関係の業者が梱包を解かれたサージ生地を奪い合うように買いあさっていた。