産後うつは血縁者から助けを得られるのか
ロンドンのキングス・カレッジ・ロンドン精神医学・心理学・神経科学研究所の設立者であるオーブリー・ルイスは、助けを必要としていることを伝えるシグナルとして抑うつが現れる場合があると考えていた(*10)。スタンフォード大学医学部精神医学科の主任だったデイヴィッド・ハンバーグは、この考えをさらに発展させた(*11)。
また、何人かの進化心理学者は、自殺のほのめかしをはじめとする抑うつ症状は、ほかの人を操作して自分を助けさせるための戦略であるという可能性を指摘し、この説にシニカルなひねりを加えた。さらに、エドワード・ハーゲンは、産後うつは血縁者から助けを得るという特定の目的のために形づくられた適応なのではないかという説を唱えた(*12,13)。
ハーゲンは、産後うつ病の症状は子育てを放棄することをほのめかす受動的な脅しであるとし、そしてその裏付けとして、産後うつ病を発症しやすいのは、夫からの支援が少ない場合や、リソースが限られている場合、あるいは赤ん坊に通常よりも多くのケアが必要な場合であることを挙げた。
確かに、抑うつや自殺のほのめかしは、他人の操作につながる面がある。しかし、そのような状況にある母親にとって抑うつという反応が確実に有用であるというエビデンスは、ほとんど存在しない。
それに、抑うつ症状をみせる人のほうが、通常なら支援してくれない血縁者から多くの助けを引き出すことができるという、明確な論拠もない。さらに、この説はジェームズ・コインによる先行研究と矛盾する。コインは、抑うつ症状は血縁者から同情的で役に立つ反応を引き出せるが、それは短期間だけであり、血縁者の多くはすぐに手を引く傾向があることを明らかにしているのだ(*14)。
序列の下位に転落したニワトリは服従的になる
カナダ人心理学者のデニス・デカタンザロは、これよりもさらに不穏な説を唱えた。自殺が個体の遺伝子に利益をもたらし得る、というのだ(*15)。デカタンザロの考えによれば、個体が過酷な環境下にあり、将来的に自分が直接繁殖できる可能性がほとんどない場合でも、自殺をすれば血縁者のための食料とリソースを節約することが可能になる。そしてその場合、自殺する個体は血縁者の繁殖を通して遺伝子を次の世代に伝えることができる、という。
これが本当なら、選択が形づくるのは個体よりも遺伝子のためになる形質である、ということの究極の例と言えるだろう。だが、この考えはクリエイティブではあるが、ほぼ確実に間違っている。過酷な環境下にあったとしても、自殺は決して日常的に起きることではない。将来の繁殖が望めない病気を抱えた高齢者であっても、なんとかして少しでも長く生きたいと願う人は多い。さらに、なぜわざわざ自分を殺す必要があるというのだろう? ただどこかに消えるか、食べるのをやめれば済むことではないか?
英国人精神医学者のジョン・プライスは、ニワトリをつぶさに観察し、抑うつ症状がもつ重要な機能に気づいた(*16)。体重が減って序列の下位に転落したニワトリは、ほかのニワトリと関わりをもたなくなり、服従的になる。そうすることで、階層の上部にいるニワトリからの攻撃を軽減させるのだ。