遺伝子にとっては有益な症状もある

ネガティブな情動が役に立つ場合もあるという考え方は、それを体験している本人にとっては、受け入れがたいこともあるようだ。この、当然といえば当然の疑念に答えるために、「病気の症状には進化的な起源と役割がある」と考える根拠を四つ示したい。

まず一つ目に、不安や悲しみといった症状は、予想不可能なタイミングでごく一部の人にだけ現れる、特異な変化ではない。むしろ、汗や咳と同じように、ある特定の状況下ではほぼすべての人に一貫して現れる反応だ。

二つ目に、情動が表出する背景には、特定の状況において特定の情動が湧き上がるように調節するメカニズムが存在する。そしてそのような制御システムが進化するのは、それが適応度に影響するような形質に関するものである場合だけだ。

三つ目に、反応の欠如は、有害な結果につながることがある。例えば咳が十分にできないと、肺炎は致死的になり得るし、高所恐怖が足りないと、落下の可能性が高まる。

四つ目に、症状の中には、個体にとっては重大なコストを生じさせるものであっても、その個体の遺伝子にとっては有益なものがある。

幸福より繁殖の成功が重要視される

一九七五年のある暑い夏の夜、私は当直医として待機すべく、病院に出勤した。病棟では何も問題は起きておらず、救急救命室も静かだったので、私はエドワード・O・ウィルソンの新刊『社会生物学』を読み始めた。真夜中近くになって、私はある衝撃的な文章に出くわした。

つまり愛情には憎悪、攻撃心には恐怖心、大胆さには躊躇が伴うようになる。しかし、これらの感情のとり合わせもなんらその生物の幸福と生存のために考え出されたものではなく、あくまでこれらの感情を制御している遺伝子群の子孫への受け渡しが、最大限に行われるべく考え出されたにすぎない(*18)
(『社会生物学』エドワード・O・ウィルソン著、坂上昭一他訳、思索社、1999年)

これを読んだ瞬間、私は行動と情動に関する自分の考え方が間違っていたことに気づいた。私はそれまで、自然選択は、健康で幸せで善良で協力的な社会の一員になるように私たちを形づくっているのだと思っていた。だが悲しいかな、そうではないのだ。自然選択においては、私たちの幸福などどうでもいい。進化の計算式において重要なのは、繁殖の成功だけだ。私は一〇年ものあいだ、正常な情動とは何かをほとんど知らないまま、情動の障害を治療し続けていたのだ。