「愛するものとの死別」はうつ病と関係あるか

この傾向は非常に広くみられるもので、社会心理学では「根本的な帰属の誤り(*1)」と呼ばれる。

DSMはその良い例だ。DSMにおいては、不安や抑うつなどの症状が一定以上の期間にわたってある程度の強さで出ていれば、患者を取り巻く人生の状況がいかなるものであれ、精神障害として診断するに十分とみなされる。

社会学者のアラン・ホーウィッツとジェローム・ウェイクフィールドは、DSMにみられるこの誤りを修正するために、ある方法を提案した。二人は、DSM-IVの定義では、愛する者を失って間もない場合はうつ病の診断から除外されることに触れ、ほかの主要なライフイベントも同様の例外条件として含めるべきだと指摘したのだ(*2)

DSM5の作成者たちは一貫性の欠如を認めたが、彼らが取った解決策は逆にすべての例外を——「愛するものとの死別」を含め——なくすことだった(*3)。彼らはこの変更を加えた理由を、一貫性を確立するために必要な改定であり、かつ、死別によって引き起こされる症状が深刻な場合には、治療が必要なうつ病である可能性も考えられるためだとした。

そして、関連するライフイベントの重大性を診断の過程で判断する必要が出た場合に、診断の信頼性が損なわれるのを避けようとしたためでもあった。

恐怖や怒り、嫉妬なども時には有用

症状を疾患として捉える傾向は、ほかの医学領域においても問題であり、「臨床医の幻想(clinician’s illusion)」とも呼ばれている(*4)。症状自体が問題であるかのようにみえてしまうのは、その多くがとても不快で、生活の妨げになるものだからだ。痛みにつきまとわれる生活は苦しみそのものだし、下痢は致死的な脱水症状につながりかねない。このような症状は、通常は投薬によって安全にブロックできるため、そもそも不必要であるかのように思える。

だが、痛みや下痢、熱、咳などは、状況によっては役に立つ。このような症状は、ある特定の状況が訪れたとき、そして煙探知機の原理が示すように、特定の状況が訪れる可能性があるときに、正常な反応として現れる。

異常なのは、反応が過剰に現れる場合だ。そして反応が十分に現れない場合も、過剰な場合と比べて目立ちにくいが、同じく異常だ。ある反応が正常なものか、または異常なものなのかは、それが現れたときの状況がどのようなものかによって決まるのだ(*5〜7)

反応の中には、変化する状況に体を適応させるために起こるものも多い(*8〜10)。生理学者は、環境の変化に合わせて呼吸や心拍数、体温などが調節されるメカニズムを研究する(11〜13*)。そして行動生態学者は、生物の認知や行動、動機などの変化によって、移り変わる状況に生物が自らを適応させるメカニズムを研究する(*14〜16)。同様に、汗や震え、熱、痛みなどと同様に、恐怖や怒り、喜び、嫉妬などを感じる能力も、特定の状況においては有用なのだ(*17)