それでも日本経済は安定成長を続けていました。安定成長期の成長を支えていたのは、なんといっても資本の投下です。資本は、高度経済成長期とあまり変わらない貢献をしていたわけです。労働の投入も、質、量ともに成長に貢献していますが、その大きさは徐々に低減していきました。特に、労働の量の貢献は少なくなってきています。
働いている人の数の変化はこの期間にはそれほどありません。むしろ、働く人の数は、1975年から1995年の期間では16%増えています。およそ5600万人だったのが、1995年には6700万人ほどに増加したのです。
しかし、労働時間はそこまで増えていません。1975年に日本で労働に費やされた時間は合計で1100億時間であり、それは1995年には1280億時間になっています。増えているのですが、11%の成長であり、働く人の数ほどは増えていません。つまり一人当たりの労働時間は少なくなっているのです。
停滞を招いた犯人は「貸し渋り」なのか
そして、問題の「失われた20年」です。成長会計からすると、低成長の「犯人」は一目瞭然です。それまでの頼みの綱だった、資本の貢献が大きく減少してます。
かねてより指摘されていることですが、1990年代後半からのいわゆる「失われた20年」の原因の1つとして、銀行による「貸し渋り」があったと考えられています。貸し渋りは、なぜ起こってきたのでしょうか。
きっかけの1つは、「バーゼル合意」だと言われています。米、英、仏、独、伊、そして日本など、いわゆるG10(グループ・オブ・テン)の中央銀行を中心に組織されたバーゼル銀行監督委員会が、1988年にバーゼルIと呼ばれる合意をしたのです。そこでは、銀行の自己資本比率の測り方が統一化され、グローバルにビジネスを展開する金融機関は、自己資本を8%以上にすることが求められることになりました。
日本では1992年末から本格的に適用されることになり、銀行は自己資本比率を上げなくてはならなくなりました。自己資本比率の分母は、債権や株式など元本割れする可能性がある資産(リスクアセット)です。分子は、資本金や引当金、準備金、株式などの含み益などです。比率を上げるためには、分母を減らすか、分子を増やすかです。
成長の芽を摘んだ銀行のリスク回避行動
当時は、ちょうどバブル経済崩壊と重なり、株価がピークから低下していくタイミングでした。さらに追い打ちをかけるように、2002年度から時価会計の導入が強制されました。企業が所有する有価証券の価値の算出が簿価から時価へと変更になったのです。
そのため、有価証券の時価が下がれば、含み損がでて、自己資本比率の分子を減らしてしまいます。日本の銀行は、このような厳しい環境の中で、どうにか自己資本比率を上げなくてはならなくなったのです。