※本稿は、本郷和人『日本史の法則』(河出書房新社)の一部を再編集したものです。
腕っぷしは強いが、知力や教養は乏しかった
これは日本史ではなく、東洋史のほうの研究者の知見なのですが、いわゆる「元寇」の前段階、モンゴルから送られてきた国書は、別に服属を求めてきたわけではなく、驚くほど丁寧なものだったそうです。
だから、もしももう少し鎌倉の武士たちに教養があって、モンゴルの意図を理解することができていたら。少なくとも挨拶の使者くらいは送ったのではないかと思います。
当時の鎌倉の武士は腕っぷしは強い。しかし知力や教養は乏しかった。
たとえば極楽寺重時(1198―1261)という、北条泰時(1183―1242)の弟にあたる武士がいました。泰時は御成敗式目を定めた執権。重時はその兄に非常に忠実な人で、泰時に頼まれて京都で六波羅探題を務め、泰時没後は、兄の孫の北条時頼(1227―1263)を補佐するために京都から帰ってきた。
重時は時頼をしっかり補佐し、やがて重時の娘と時頼が結婚して時宗が生まれた。後にモンゴルと戦うことになる北条時宗(1251―1284)です。時宗からすると、重時は祖父ということになります。
彼は、兄の泰時とともに、政治行為の重要性を知らしめ、鎌倉幕府に「統治」という概念を植えつけました。この極楽寺重時が鎌倉時代のキーパーソンだったと私は考えています。
その重時が、子どもたちにあてて書いた遺訓が残っています。
そのなかの1つには「どんなに腹が立っても家来を殺してはいけない」とある。どんな教えだ。重時ほど優秀な人にして、このレベル……。しかも言われている子どもたちが、箸にも棒にもかからない出来だったのであれば、まだ仕方がないですが、その子どもとは、北条時頼から認められ、初めて北条本家以外から執権になった北条長時(1230―1264)なのです。
重時ですら、やがて執権となる息子に「腹が立ったからといって家来を殺すな」と教えなければならないレベル。それが当時の武士の教養の現実でした。