国書を読みこなすこともできない

それでも北条家は鎌倉武士の中でも非常に賢い家だったのですが、モンゴルの国書を読みこなすだけの力はない。それに、モンゴルが非常に低姿勢であるというのは、現代の東洋史研究者だからこそわかることであって、リアルタイムの彼らが理解するのは難しいことだったのかもしれません。

ただ使者が何人も来ているわけですから、きちんと話を聞いてみればよかった。しかし、そこが駄目なところなのですね。少し教養があれば、ともかくもフビライに使いを送って、挨拶をする。そうしたら「お前の所はど田舎だと聞いているけれども、遠い所はるばるよくやって来た。朕は満足である」ということで、たぶん鷹揚おうようにご褒美をいっぱい持たせて帰してくれたと思います。

モンゴルがわざわざ日本を攻める意味はない

モンゴルにしてみれば、わざわざコストパフォーマンスのよくない日本攻めなどやる意味がないのです。

趙良弼(ちょうりょうひつ)(1217―1286)という使者の1人が1年ほど日本に滞在し、日本の様子をよく観察した。

そして元に帰ってフビライに報告しているのですが、その内容は「あの国は人は荒くれ者ばかりで、土地は痩せて耕作には不向きです。あんな所に兵を送っても割りに合いませんので、出兵は不可です」というものだったのです。

だからフビライをわざわざ激怒させない限り、おそらく攻めてくることはなかった。

馬に乗ったモンゴルの射手
写真=iStock.com/insima
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たまに「モンゴルは日本征服の闘志を、めらめらと燃やしていた」というようなことを語る人がいますが、それは全然違ったと思います。金のロレックスを持っている人が、今さら1万円くらいのデジタル時計を欲しがるでしょうか。欲しい場合もあるのでしょうか。ふつうは、要らないと思うのですが。

けっきょく北条氏は、モンゴルの使者を無視しました。「かかって来るなら来い」という姿勢に他なりません。

しかもこの辺りが北条氏のどうしようもないところで、モンゴルと日本が戦争になるという状況がまったく読めていないのか、それとも当時の戦争とはそうしたものだったのか、元との交易はしれっと行っているのです。しかもそれで、北条本家に近い人間が利益を上げていた。

中国の朝貢貿易というものは、誰とでもするというものではなくて、その土地の王様しか相手にしない。その場合、小国であっても相手が王様であれば問題ない。たとえば琉球、今の沖縄県には統一以前に3人の王様がいましたが、元の後の明と、それぞれ交易ルートを持っていました。ただしこのとき、中華の皇帝から「おまえを○△国王に任ずる」という、いわゆる「冊封さくほう関係」を結ぶ必要があります。王は皇帝の臣になるのです。