ユニフォームは毎回発注先を変えて、価格競争を促す
沖水選手に期待するプロ野球球団は沖縄県での春季キャンプで使ったボールを置き土産にし、大手スポーツメーカーはグローブ、スパイクなど大量の在庫品をグラウンドに運び入れ、格安で高校に提供した。大会ごとに新調したユニフォームは、毎回発注先を変えたことで価格競争が生まれた。
87年の国体の開催に向けては、軟式野球の競技会場の一つにと沖水はいち早く名乗りを上げ、国体予算を活用して、水はけの良い土へ入れ替えるなどグランド整備を進めた。88年の南西航空(現・日本トランスオーシャン航空)の那覇―岡山など本土直行便の開設で、就航地域の学校と交流試合が企画されると、航空会社や企業が渡航費の協賛でサポートした。栽監督を訪ねてくる友人知人、OBらには、手土産に菓子ではなく、ボールを求めた。
沖縄水産高校のグラウンドと練習スペースの充実ぶりは、現在でも他の高校と比べて突出している。実際にその場に立つと、明確に「勝ち」に向かった栽監督の意志がひしひしと伝わってくる。その熱量と行動力は、沖縄の高校野球全体にも波及した。プロ野球の春季キャンプの誘致や、プロが使いやすい球場施設の提案など、水面下で絶えず球団関係者や行政に働きかけていたのも、栽監督だった。
「(優勝旗を)私が初めて持ち帰っていいんだろうか」
栽監督の背中を追いかけながらも、指導者として独特な経験を積み重ねてきた教え子もいる。
「(甲子園の優勝旗を)私が初めて持ち帰っていいんだろうか、というのが率直な気持ちでした」
1999年の春の選抜大会決勝戦。沖縄尚学が水戸商業を破り、春夏通じて県勢初の甲子園優勝を達成した試合後のインタビュー。金城孝夫監督(67)は勝利の瞬間の思いを聞かれ、即座にこう答えた。
金城さんの思いの先に、栽監督がいることを多くの県民が直感した。九州共立大学野球部監督だった“教え子仲間”の仲里清さんは、この中継を見た瞬間、いてもたってもいられず金城さんに電話をかけた。「いいこと言った! 栽先生が持って帰りたかったものを、バトンを受け取った僕らが持って帰るんだ」