1968年の「興南高校のベスト4」は本土復帰前だった
沖縄には少なくとも2つ、“全国トップレベル、日本一”と言っていい分野がある。元歌手の安室奈美恵さんら県出身のアーティストや俳優、タレントの活躍にみる「エンターテインメント」、そして、甲子園上位を狙える複数の強豪校とプロ野球人材の宝庫として知られる「高校野球」だ。
太平洋戦争で経験した唯一の地上戦、米軍占領の時代、過剰な基地負担、そして全国ワーストから抜け出せない県民所得と低い経済力。終戦から76年、本土復帰から49年。沖縄には暗い過去の影響と、暮らしに関わる“変わらない”現実が今なお横たわる。それらと比べると、「エンターテインメント」と「野球」の発展は、まるで別世界にある。
特に、沖縄県民にとって高校野球は、胸がすくような清々しさがある。県勢躍進の歴史は、本土復帰前の1968年、興南高校が初のベスト4に進出してから、2010年の興南・春夏連覇に至るまでの40年余りに集約される。
春夏を通じた甲子園の優勝回数は4回。“日本一”の峠を越えた後も、離島を含む県内各地の学校から有力選手が次々と現れ、今や沖縄は出身都道府県別の人口割合でプロ野球選手の輩出が最も多い県となった。
「経営感覚」があったから、本土との格差を乗り越えられた
弱小県から強豪県へ、「本土との格差を乗り越えた」というリアルな体感は、球児や関係者だけのものではない。40代以上のウチナーンチュ(沖縄人)ならその肌感覚が分かるはずだ。本土復帰後、「大臣誕生が先か、甲子園優勝が先か」のフレーズとともに、県の“遅れ”は自らの“劣り”と、潜在的に意識せざるを得なかった。その克服を目指した県民と「高校野球」は、独特な連帯感の上にあったといえる。
野球という一競技の枠を超えて、地域の人々がもつ素質と意欲が引き上げられた背景には、忘れられない1人の「教員監督」の存在があった。
沖縄の野球と経済力。どちらも本土から大きく後れをとってきた歴史をもち、「離島性の克服」という課題に違いはない。それなのに、なぜ前者は全国トップレベルの人材を生み出し、地位を塗り替え、後者は課題の多くを解決できずに日本最下位にとどまるのだろうか。答えを求めて、ある教員監督の類いまれなる「経営感覚」に導かれた元・現役指導者、選手たちを訪ね歩いた。