県の発展と共に沖縄野球も黄金時代へ
教え子たちの記憶に残る栽監督の「手腕」は、その“土壌づくり”にある。県立高校の一教員、一公務員の職業の枠に収まることなく、試合の采配を振るう監督業の域をもはるかに超えていた。
1980年代半ば。本土復帰後初となる国体(国民体育大会)の沖縄開催が決まり、インフラ開発ラッシュの最中。高速道路や陸上競技場、運動公園が県内各地に整備され、エアラインの新規路線就航も相次いだ。人とモノの流れが一気に加速し、沖縄の風景が急速に変わっていった。
時を同じくして、栽監督率いる沖水は、84年から5年連続で甲子園に出場、88年の夏の大会では投手に平良幸一選手(元西武ライオンズ)や野手に伊禮忠彦選手(元中日ドラゴンズ)を擁して68年の興南旋風から20年ぶりのベスト4に進出した。同じ年の秋には京都国体で沖縄県勢初の全国1位を勝ち取る。90、91年には夏の甲子園で2年連続準優勝を達成し、栽監督の圧倒的な指導力が全国に知られるようになった。
沖縄水産は全校生徒360人中120人が野球部員に
勝ち続けるところには、人と情報と、支援が集まる。全盛期の沖水には、全校生徒約360人のうち、野球部員が120人を占めた。県内全域からスカウトしてきた主力選手だけでなく、「沖水野球」に憧れ入学した生徒たちも大勢いた。
一方で、県立高校の限られた部活動予算では、到底全員が満足に練習できる環境はつくれない。部員の中には母子家庭で育つ子どもたちも少なくない。栽監督は沖縄戦で当時23歳、19歳、16歳の3人の姉を亡くし、きょうだいでただ一人生き残った。母親の苦労と寂しさを背中いっぱいに感じて育ち、多くの沖縄県民と原体験を共有していた。
ボール1個のサッカーと違い、バットやグローブなど道具を揃えることから苦労する贅沢なスポーツが野球だ。家計をやりくりする親の心苦しさが痛いほどに分かっていた。
皆がいつでもボールに触れられ、自分たちで考え、先輩後輩がバディになって自主練のできる環境をつくる。栽監督の仕事の原点、活力の源泉がそこにあった。「常勝チーム」に集まる人々の関心と情報の交差点に立ち、沖縄の子どもたちの素材を生かす土壌づくりと、肥しとなる試合経験の充実のために、トップの強みを最大限生かし奔走した。