サッカーが嫌いなのではなく同調圧力が嫌い
日本代表を応援する学友からは、「古谷はなぜ日本代表を応援しないのか。日本人なら青いユニフォームを着て日本代表を鼓舞するのが当然ではないか」と揶揄された。知った事ではない。くり返すように私は、サッカーが嫌いな訳でもなく、W杯という国際大会をボイコットしようとする気概を持っている訳でもなかった。ただ、「日本人なら国家的イベントを、日本側に立って応援するのが当たり前だ」というその、私から言わせれば醜悪な同調圧力にただただ嫌悪感を抱いただけである。
本来、どの国の選手を応援しようと、また応援しなくとも個人の自由である。日本人でありながら日本代表を黙殺し、コロンビアやカメルーンやモロッコのチームを応援することもまた自由である。「○○なんだから、○○せなばならない」――この同調圧力が嫌なだけなのだ。サッカーが嫌いな訳ではない。
みんながスポーツを好きだと思うなよ
事程左様に、私の五輪禁忌は、こういった五輪にまつわる翼賛的同調圧力に生理的に嫌悪感を感じる、その一点に尽きる。日本選手が金メダルを取る。実によろしいではないか。日本選手が銀メダルを取る。あと一歩であったが実によろしいのである。しかし、それは私の人生ではない。情報が狭窄してネットのない時代、日本選手の活躍=自分自身の人生とか、拡大して日本全体の偉業とダブらせて尊崇する時代では最早ない。
はたまた繰り返しになるが、今次五輪に於いて、日本選手団が如何に活躍しようとも、私の人生には何も関係がない。アスリートの感動は国家レベルの感動と同一ではなく、また個人の生活に何の変化も与えない。寧ろ私は五輪狂騒の裏で、本来問題とされるべき社会問題が五輪紙面に圧迫されて疎かになりやしまいか、という部分を危惧する。事実五輪が開幕してから、新聞紙面の構成もテレビの編成も、ラジオだって一部そうなっているではないか。ミャンマー情勢はどうなった。夫婦別姓をめぐる判決は。原発再稼働の是非は。熱海の土石流災害については。もうどこかへ吹き飛んでしまった。危惧すべき状況が進行形で表面化している。
五輪という国家的なイベントを楽しむべきか、或いは批判的・懐疑的であるかという問いに答えなどない。「やるのなら、勝手にやってくれ」というのが私の結論である。好きにしてくれ。ただそれを他人に押し付けてはいけない。それだけのことがなぜ分からないのだろうか。
安倍晋三前首相は「東京五輪に反対するのは反日的である」旨、月刊『Hanada』2021年8月号の対談で発して物議をかもした。そういう問題ではない。五輪をどうしてもやるのなら「ただ静かに黙ってやってくれよ」と思うだけだ。そういう人は多いはずだ。みんながスポーツを好きだと思うなよ。ただこれだけのロジックを建てるために、懇切丁寧に説明しなければならないという時点で、日本にダイバーシティ(多様性)などというものは微塵もないと断言できる。本当に嫌な時代だと思う。