なぜスポーツだけが特別視されるのか

よく4年に1度(今年は5年になったが)の国際大会の為に、アスリートはどれほど己の肉体を鍛錬し、また科学的に調整して、筆舌に尽くしがたい努力を以て頑張ってきたのであるか、という。そういう特集が五輪のたびに必ず組まれる。無論否定はしない。アスリートはそれが人生であり仕事だからだ。

私に言わせれば、それと同じような気概を以て艱難辛苦を乗り越えて政治、経済、社会、文化の方面で創意工夫している人は、スポーツ分野以外にも大勢いる(単純な量的数量ですればそういった人の方が多かろう)。なぜスポーツだけが特別視されるのか。私はいくら熟考してもまるで分からない。一種の選民思想のようにも感じる。

まずよし、スポーツに於いてはその努力の結果として明確な勝敗というものがあり、或いは新記録という数値目標がある。努力の結果がダイレクトに反映され、数値的に可視化されやすいのは確かである。よって、それに熱狂するのは分からないでもない。ただし、私に言わせれば「勝手にやってくれ」という一言である。

貴方の頑張りの感動は私の努力や人生とは違うものだ。サークルや部活の範囲内でそれを喧伝することは結構なことだが、税金を投入した国家的なイベント――、五輪にそれをそのまま投射するのは断じて納得できない。スポーツ音痴の私の偽らざる本心はここにある。

感動の押し付けをしないでほしい

アスリートに罪はない、ともいう。その通りである。アスリートは様々に噴出した今次五輪関係者に関する人権意識の低さ等々に連なる醜聞に責を持たないのは全くその通りだろう。私はアスリートを怨嗟している訳ではない。頑張ったのなら、五輪という晴れ舞台で勝負し、その結果メダルを獲得した選手は素晴らしいと思うが、その感動を押し付けないで欲しい。そのノリに私は乗れないのだ。私の主張はこの一点に尽きる。

2002年、日韓共催W杯が開催された。私は当時大学2年生で関西圏に住んでいたが、同級生の少なくない一郡は、皆青いユニフォームを着て、或いは頬に日の丸のペインティングをして、京都・河原町、或いは大阪・梅田の酒場やパブリックビューイングで日本代表の戦いに熱狂した。私はそういった同級生を冷ややかな目線で冷笑し、京都市内の吉野家で牛皿をつつきながら学友と押井守の話とか自公保連立(当時は、自民・公明・保守党)の是非を深夜まで闘わせていた。W杯に何の興味もなかった。貴方の感動と私の感動は違う――、これがすべての要因であった。