7月23日に東京オリンピックが開幕した。新聞やテレビでは、メダル獲得にまつわるアスリートの感動エピソードが乱舞している。文筆家の古谷経衡さんは「だから私は東京五輪に反対してきた。なぜ感動を押し付けられなければいけないのか」という――。
東京オリンピック開会式で国立競技場から打ち上げられる花火
写真=EPA/時事通信フォト
東京オリンピック開会式で国立競技場から打ち上げられる花火=2021年7月23日

この同調圧力には耐えられない

私は昨年の時点で、東京五輪は中止すべきと主張していた。そこには菅義偉首相が嫌いだからとか、自民党に対して不支持であるといった政治的な理由があるからではない。私が東京五輪に反対していたのは、

「せっかく五輪が日本で開催されるのだからみんなで応援しようよ! ホスト国として五輪を盛り上げていこうぜ! 若者や子供たちに夢や希望を与えるためにみんなで頑張ろうよ!」

という同調圧力がただただ堪らなく嫌いだからだ。

感動は押し付けられるものではない。内発的に沸き上がるものである。「感動ポルノ」という言葉がはやったが、私の五輪に対する生理的嫌悪感はこれだ。あなたの感動と私の感動は違う。押し付けはやめてくれ。私の感動は私が発見する。政府やメディアに押し付けられるものではない――。これが私が五輪のノリに対して違和感を抱き、距離を取りたい最大の理由である。

中学生の15.8%はスポーツが嫌い

だからもしコロナ禍が無く、予定通り五輪が昨年(2020年)に開催されていても、私は五輪のノリには全く乗れなかった筈だ。ただ冷めた目で五輪を見ていただろうし、ましてコロナ禍ではその冷笑は加速する。開会式を境に、

「始まってしまったものは仕方がない。皆で日本選手を応援し、五輪を盛り上げようぜ!」

という手のひらを返した翼賛的なノリも、私にはどうも滑稽に思える。始まってしまったから仕方がない――というのは、構造的には「戦争が始まってしまった以上、仕方がない。われわれは戦争遂行に邁進するべきである」と同じだ。私は今後も五輪開催中、五輪へ冷たい目線を投げかけ続けるだろう。感動の押し売り、押し付けは真っ平御免である。感動は貴方からもらうものではなく、私が内発的に発見するものだ。

スポーツ庁「令和元年度全国体力・運動能力、運動習慣等調査結果」によれば、「スポーツが嫌い・やや嫌い」と答えた中学校生徒は、男子で10.8%、女子で20.9%にのぼり、平均すると15.8%が「スポーツが嫌い」と答えている。決して無視できない数の生徒がスポーツは嫌いなんだと答えている。

スポーツ庁はこの「嫌い」を半減させることを国策として打ち出している。滑稽である。国語や算数、社会科が嫌いと答える生徒はこれと同数かそれ以上いる筈だが、なぜスポーツだけが「半減目標」の国家的対象になるのか皆目見当がつかない。嫌いなものを無理やり「好き」に変えさせるというのは、古代の世界帝国が異民族に講じた改宗と同じ愚挙ではないか。スポーツだけがまるで特権的に特別視されることに違和感を覚える。