パニック障害を機にスポーツとは縁のない生活に
かくいう私は、小学校から中学校まで実に8年間に亘り水泳をやっていた(週1回か2回、近所の有名なスイミングスクールに通っていた)。お陰で当時、600メートルは楽に泳ぐことができ、基礎的な筋力や体力がついた。小学校高学年では1年ぐらいバスケットボールをやっていた。遂にレギュラーにはなれなかったが、スポーツが嫌いかと問われると当時の私はNOと答えたと思う。
高校に入ると、この状況は一変した。私は精神疾患(パニック障害)を患い、体育館に出入りすることができなくなった。だから高校の3年間、私は完全にスポーツや体育とは縁のない生活を送り、見学とか保健室待機という形で学校側にその出席単位を認めさせる地道な交渉を成功させたのである。
この頃から、私はハッキリとスポーツというものに対しての違和感を覚えだした。スポーツの祭典というものには必ず、平和とか人権擁護とか、マイノリティの尊重という美辞麗句が付きまとう。そのマイノリティは現代専ら性的少数者とか民族的マイノリティを指す向きが強いが、スポーツに嫌悪感を抱く人とか、スポーツの熱狂に距離を置くという人が「含まれない」という解釈ではなかろう。
「スポーツ嫌いのマイノリティ」は肩身が狭い
当時の私はそんな美辞麗句から、スポーツが嫌い、または嫌悪感を抱くものはその美辞麗句から言外にも前提的に排除されている、という皮膚感覚があった。先に述べたスポーツ庁が自ら掲げるように、「スポーツが嫌い」という16%近くの人々に対して「スポーツを好きになってもらう」という国策を打ち立てたのがその証左である。
思春期にあって、スポーツ分野の部活で県大会や全国大会に進む者だけが特別視され、「頑張り」の代名詞とされる。そして(非体育会系諸氏の)全員で彼ら彼女らを翼賛的に応援するのが当たり前だとされている。そんな風潮が堪らなく嫌で仕方がなかった。しかし五輪憲章に照らせば、私の様な「スポーツ嫌いのマイノリティ」にもその差別の目線は決して向かってはいけない筈である。