年下のライバルが次々に9秒台を出す中、プライドはズタズタに

広島の進学校で知られる修道高に進学した山縣は、3年時(2010年)の国体少年A100mを無風のなか10秒34(±0)で優勝。それは『月刊陸上競技』の表紙を飾るほどのパフォーマンスだった。筆者はそのとき山縣を初めて取材して記事を書いている。

男子100メートル決勝で9秒95の日本新記録をマークして優勝し、笑顔で記者会見する山県亮太(セイコー)=2021年6月6日、鳥取市のヤマタスポーツパーク陸上競技場[代表撮影]
男子100メートル決勝で9秒95の日本新記録をマークして優勝し、笑顔で記者会見する山県亮太(セイコー)=2021年6月6日、鳥取市のヤマタスポーツパーク陸上競技場[代表撮影](写真=時事通信フォト)

思えば、山縣がその後何度も味わわされる「風に嫌われるレース」の始まりが、このレースだったのかもしれない。ほんのもう少しだけ追い風が吹いていれば、このレースで当時の高校記録(10秒24)を塗り替えていた可能性があったからだ。

大学はスポーツ推薦ではなく、「落ちるかもしれない」という不安と戦いながら慶大のAO入試に挑戦。見事突破して、総合政策学部に入学した。他の名門大学と異なり、当時の慶大競争部には短距離専属の指導者はいなかったが、「どんな環境でも、伸びるかどうかはその人次第だと思っています」と山縣は考えていた。

大学1年時(2011年)の10月に100mで10秒23(+1.8)の日本ジュニア記録を樹立。同2年時(2012年)は4月の織田記念で10秒08(+2.0)をマークすると、ロンドン五輪で躍動する。予選6組で自己記録を更新する10秒07(+1.3)の2着で通過。準決勝3組は10秒10(+1.7)で6着に終わるも、初の大舞台で実力を発揮した。

桐生が2013年に10秒01を出すまでは、山縣が次世代を担うダントツのエース候補だったのだ。逆に言えば、甘いルックスでおまけに日本一足が速い慶應ボーイはわが世の春の主役の座を後輩に奪われてしまったのだ。

大学3年時の2013年は織田記念の決勝で桐生に0.01秒差で敗れたが、6月の日本選手権では10秒11(+0.7)で初優勝を飾った。しかし、そこからは“苦難”が続くことになる。

まずは故障だ。2013年9月に腰を痛めると、長年悩まされ続けてきた。左右のバランスが崩れたフォームで走っていた時期もある。2015年の日本選手権は腰痛が悪化したため、準決勝を棄権。北京世界選手権の代表をつかむことができなかった。

2017年は右足首を痛めて、4月29日の織田記念、5月21日のゴールデングランプリ川崎、6月4日の布勢スプリントを欠場。ぶっつけ本番になった日本選手権で6位に終わり、ロンドン世界選手権代表を逃がしている。

2019年6月の日本選手権直前に肺気胸を発症して、11月には右足首靱帯を負傷。2020年も右膝蓋腱炎で10月の日本選手権を欠場した。上記以外にもハムストリングスを肉離れするなど、9秒台を目指すなかで故障に苦しめられ続けてきた。