「いじめ=犯罪」にすべてを落とし込んではいけない
いじめでは、被害者側にも悪いところがあるという話が絶対に出てきます。あるいは誰に言われたわけでもないのに被害者側が「自分が悪いんじゃないか」と思いつめてしまうこともある。でも、いじめられる側に何か落ち度があったとしても、いじめていいということにはなりません。
法律では「友だちとのトラブルや、モヤモヤした気持ちを晴らすために、ほかの選択肢もあったのに、あえて『いじめ』という行為を選択したことがだめなんじゃないのか」と考えます。
最近では「いじめは犯罪」という主張が、広く受け入れられるようになりました。それでは犯罪になるのはどんなことかというと、必ずその人がとった「行動」なんです。「どう思ったか」では絶対に犯罪にはならなくて、「何をやったか」なんです。誰かを憎いと思うのは自由、でも憎い相手を攻撃する行動は犯罪になります。
だから法律の考え方をベースに、「あなたがしたことはだめだったよね」「それは自分が加害者になることだったよね」と教えていくことは大切だと思います。でも難しいのは、全部「いじめ=犯罪」にすると「見えなくなるいじめ」が出てくることなんです。
たとえば、みんなで誰かを無視するという行為は「犯罪」にならないけど、「いじめ」じゃないですか。すべて「いじめ=犯罪」にすると、いじめという言葉の意味がせばまり、逆に発見しにくくなってしまう。これは逆効果です。だから「いじめは犯罪になることもあるんだよ。重いものなんだよ」と伝えることも大切だけど、それとともに「いじめ」という広い言葉を残すことも必要です。
その子が幸せな人生に向かえる選択肢を増やす
私たち大人は「学校に行かないでこうする」「学校に行かなくてもいい」ことを伝えてきました。けれども、それは「これからの時代、学校へ行くなんてナンセンスだ」ということではもちろんなくて、選択肢を増やしましょうということですよね。
どの選択肢も自分の幸せな人生に向かっていて、どの道が良いかは人それぞれです。選択肢をいろいろ提示できて、そのどれもが「いい選択肢だよね」と、言えるようにしていく。そういうことを、私たちはまだまだやっていかなければと思います。