学校へ行くのは義務ではなく権利
日本では、原則として親が「子どもを小中学校に必ず通わせなければならない」という考えが基本にあると思います。でも学校へ行くのは、子どもの義務ではなく、権利です。ですから、子どもが権利を放棄して学校に行かないこともできます。「教育の義務」とは、大人に課せられた「子どもに教育を受けさせる義務」を指すのです。
子どもたちにとっては権利であり、大人にとっては義務である以上、本当は子どもが喜んで学校に通える形を大人がつくらないといけないのに、なぜかこれが転じて「通わない子どもが悪い」という雰囲気に変わっていますよね。
ぼく自身、小学校でいじめにあっていました。その頃に、一日だけ学校を休んだことがあります。授業を受けに行くわけでもだれかと遊びに行くわけでもなく、わざわざ同級生たちから殴られ、蹴られ、罵られるために学校に行くのがばかばかしくなったのです。
でも、なぜか学校を休んでしまった自分の方が悪いことをしているような、モヤモヤした気持ちが強くて、結局学校を休んだのは一日だけでした。今の子どもたちも、学校は行きたくなくても行かなければならないものだというプレッシャーを感じているかもしれません。
「いじめられている」子には、「それなら学校へ行きたくないだろう」と思って「学校へ行かなくていいよ」という解決策を、さくっと提示してしまいがちです。でも、学校へ行かないという選択肢もあるし、子どもが学校へ戻りたいという意思があるならば、大人は学校へ戻してあげるために考えなくてはなりません。
子どもはいじめに気づいてほしい
いじめの問題では、中学生にアンケートをとったときに見えてきたことがあります。親、先生にはいじめにあっていることを「言わない」、けれど「気づいてほしい」と書いているものが多かったんですね。大人からすると「うわあ、難しいこと言うなあ」と思うけれど、でも実際に子どもからすると、やっぱりそうなんでしょうね。
いじめられていることに気づけるかどうかは、普段からの差が出るのだと思います。いじめに気づける親は「いじめに気づかなきゃ」と気にしているのではなくて、ふだんから何気ないコミュニケーションをとっていて、些細な変化に気づきやすい「日常」を作っています。しかし、今はコロナの影響でいつも以上に大人に余裕がない。だから子どもに目が向けられていないのではないかと心配です。