コロナ禍ではさまざまな理系の専門家がテレビに引っ張り出されるようになった。ライター・編集者の中川淳一郎さんは「コロナ禍で理系の専門家が幅を利かせるようになり、文系の人々の声を軽んじる風潮が高まっている。理系専門家の『教祖化』には注意が必要だ」という──。
考えてもわからなくて途方に暮れる男性
写真=iStock.com/Bulat Silvia
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「理系の話題の触れた文系」にありがちな反応

文系人間が自らの理系コンプレックスを痛感する瞬間はいくつかある。身近なところだと、買い物途中に概算を出したり、飲食店で割り勘をしたりといった、日常生活で唐突に暗算が求められる場面だろうか。ビジネスにおいても、統計資料を読み解いたり、表計算ソフトで計算式を組んだりする際、「これってどういうこと?」と思考が滞ってしまい、数字やグラフがまったく頭に入ってこなくなってしまう……といった声を少なからず耳にする。

スケールが大きいところでは「日本人が理系分野でノーベル賞を受賞したとき」も同様だろう。テレビはこぞって彼らの業績を称賛するものの、情報番組のキャスターあたりが「文系の私はチンプンカンプンなのですが、これは本当にすごいことのようで……」などと本音を漏らす場面も少なくない。その流れを受けて「本日はゲストをお招きしました」と同分野の専門家を紹介し、解説コーナーへと展開していくのも、これまたよく見る光景だ。

もっとも解説を聞いたところで、キャスターやコメンテーターは「なんとなくわかった気もするけど、完全には理解できない」なんて反応をしていることが多い。そんな調子では、見ている視聴者なんてもっとわからないだろう。

結局、「青色発光ダイオードの何がすごいのか」や「オプジーボはどのようにして開発されたのか」といったことを解説されて文系人間が考えるのは、「世の中には頭のいい人がいるもんだねぇ」「この人は本当に優秀なのだな。それに引き換え私のような文系の凡人は……」といったことだったりする。

「自分の生活に関連するかどうか」でバイアスがかかる

とはいうものの、新元号が発表された際に歴史をひもときながら、関連するさまざまな知識を提供してくれた本郷和人氏のような学識経験者は、文系であっても「すげぇ……」と人々から感心される。

これはどういうことか。私が思うに、人々がある情報や知識に触れて、妙なコンプレックスを抱いて思考停止するのか、はたまた素直に耳を傾けて理解を深めようとするのかどうかは、文系・理系の問題ではないのだ。要するに「自分のいまの生活や関心事に関連性が高いかどうか」で見る目にバイアスをかけているのである。

たとえば、先の改元では「次の元号がどうなるか?」という点について、多くの人が関心を寄せた。出典は中国の文献になるのか、日本の文献になるのか。そもそも元号とは何なのか。これまでどんな経緯で決定されてきたのか……など、さまざまな解説や考察がメディアで展開された。最終的に万葉集から引用された「令和」に決まった後も、原典の歌が詠まれた大宰府の歴史的経緯や役割が紹介されたりして、人々は専門家が語る関連知識から興味を深めていった。