落下した天井の総量は5トン以上、隣席の女性同僚は即死した
九段会館は軍人会館として1934年に完成した城郭風建築物である。地下1階地上4階の鉄筋コンクリート造りだ。竣工から2年後に起きた二・二六事件では鎮圧部隊の本部、戒厳司令部が置かれたことでも知られる。戦後はGHQが接収、1954年から日本遺族会が「九段会館」として運営していた。
事故が起きた大ホールの天井は竣工以来、定期点検はしていたものの補修などは行われていなかった。天井は石膏製で、230個のフックで吊るされていた。いわば、巨大な石板がしっかり固定されずに宙ぶらりになっていた構造だった。それが、長時間揺さぶられてフックの一部が外れ、全体のバランスが崩れて、連鎖的に脱落していったと考えられる。石膏の塊が1階会場の前部に落下した。落下した天井の総量は5トン以上にも及んだ。
「後に2階席にいた生徒に話を聞いたら、大きな絨毯が覆いかぶさるように落ちたらしいです。私は、左肩に強い衝撃を受け、前席との隙間の床に激しく打ち付けられました。隣の小池さんの様子を確認することはできませんでしたが、彼女はまともに頭に石膏の塊を受けてしまったようです。わずかな違いで小池さんは即死、私はかろうじて一命を取り留めました。この時、1列後ろに座っていた、もうひとりの講師先生も亡くなっています。私を含め助かった重傷者も、首の骨の骨折、両足骨折などひどいケガを負いました」
「私は事故直後、流血していたことは分かっていましたが、肩の骨が外に飛び出していたことには気付きませんでした。痛みは感じず、意識はしっかりとして終始冷静でした。天井が覆いかぶさったので視界がなくなり、真っ暗になっていました。会場からは『大丈夫かー』などの叫び声が聞こえてきました。気づくと口の中で何かがゴロゴロとしている。前歯が5本ほど折れているようでした。私はとっさに『歯をなくしてはダメだ』と思い、背広のポケットに入れたことを覚えています。私はすぐ近くにいるはずの小池さんの安否が気になり、声をかけて生存を確認したかった。けれども、『ひょっとして返事が返ってこなかったら……』と、お亡くなりになっている可能性が頭をよぎり、とても怖くなって、声をかけてあげられなかったのが正直なところです」
診断は鎖骨や肩甲骨など15カ所の骨折に頭部の裂傷、前歯が5本欠落
二村さんは会場にいた生徒らによって救出される。卒業式で若い男性が大勢いたことが救出作業を早めることにつながった。二村さんらはレスキュー隊が到着するよりも早く、外に搬出された。しかし、二村さんが現場で察したように小池さんは既に息絶えていたと思われる。
「私たちは九段会館の駐車場に運ばれ、寝かされました。近くで心臓マッサージを受けている人がいましたが、それが小池さんかどうかわかりませんでした。救急隊が到着すると、トリアージ(重症度によって治療の優先度を選別すること)が始まりました。私は『なかなか運んでくれないんだな』と思いました。私は3年前に心筋梗塞を患い、以来、血液をサラサラにする薬を飲んでいて、お医者さんから『二村さん、ケガしちゃダメだよ。血が止まらなくなって死んじゃうからね』と厳しく言われていたので、救急隊にそのことをしきりに訴えました」
「とにかく、ものすごい崩落だった。私はてっきり首都直下型大地震で九段会館全体が崩壊、いや東京全体が壊滅しているに違いないと考えていました。九段会館の駐車場に寝かされ、青空を見上げると周囲のビル群はいつもどおり。九段会館も壊れていないし、普段の東京の日常が広がっている。なんだ、私がいた場所だけが被害に遭ったんだ、と初めて気付きました」
二村さんは救急車での道中、かなり時間が長く感じたという。病院に到着するまで、マイクで途切れなく「前をあけてください」と叫んでいた。この頃、すでに都内では大渋滞が始まっていた。二村さんは新宿区の大学病院に運ばれた。診断は鎖骨や肩甲骨、肋骨など15カ所の骨折に頭部の裂傷、前歯が5本欠落など。全治するまで2年ほどかかる重傷だった。10年が経過した現在でも肩の痛みがあるという。二村さんは全身をギプスで覆われ、長期の入院を余儀なくされたが、休む間もなく、大震災がらみの葬祭に関する相談が相次いだ。
「入院中、東北の被災地の行政や葬祭業から多数の問い合わせがきました。東北の沿岸に打ち上げられたご遺体を東京に運んで火葬する方法を教えてほしい、など。現地の行政は機能不全になっていましたから、私のところに相談が集中したようです。まだ、骨はくっついていませんでしたが20日間入院しただけで、主治医には無理を言って退院させてもらい、仕事に復帰しました」