「親」になるという目標の「落とし穴」

これは、子どものしつけに熱心な父親と母親と子どもという理想の終着駅に向かう列車に乗ってしまった家族にとって、重要な分岐点にあたる場面です。結愛ちゃんの母親の記憶に「題名のついた写真」として保存されていることからもその重要性がわかります。結愛ちゃんが家族の中の急激な変化に対してあまりにも理不尽だと感じていることに、母親も半ば気づいていたことが告白されています。

しかし、「正しい」「新しいパパ」をもはや簡単に下車させるわけにはいかないと感じた彼女は、その現実から目を背け、結愛ちゃんからの救助を求めるメッセージを遮断してしまいました。

こうした文脈から、公判陳述での継父の「親になろうとしてごめんなさい」という言葉を解釈すると、走っていた列車から降りてみたら、目指した理想自体が現実離れしていたことに気づき、暴走を止めるべきだったことにようやく思い至った、と言っているのだとわかります。結愛ちゃんの「親」になるという目標は「正しい」路線ではなく、「落とし穴」だったと気づいたのです。

「ふつうの家族」として見なす日本社会

非現実的な目標に向かって走っていることに気づかなかったのは、この家族あるいは継父だけに責任がある問題なのでしょうか。この点を考える上で興味深いエピソードが『手記』に書かれています。虐待の疑いで結愛ちゃんを保護した香川県の児童相談所での経験を回想した部分です。

「『一般的には』『普通の家庭は』と他と比べられて、何かマニュアル通りに進められている気がしました。相談しても『そうですか』と言うだけで解決策をくれずにとても困りました」と結愛ちゃんの母親は書いています(『手記』一七四頁)。彼女の記憶と記述が正しいとすれば、彼女自身も、対応した職員も、ステップファミリーを「ふつうの家族」と見ていたことになります。にもかかわらず、彼女は一向に解決への出口が見つからない気持ちを内側に抱え込んでいったようです。

しかしこれは、特定の児童相談所の対応の問題なのではありません。現状では、ステップファミリー向けに特別な支援体制をもっている公的機関は、日本のどこにもないと言ってよいでしょう。これまで私たちは、臨床の専門家に相談した継母さんの多くから、「ふつうの家族」の「母親」向けの助言や励ましを受けるだけだったというエピソードを聞きました。