意思決定権を持つのは淀君と織田有楽斎。有楽斎は織田信長の実弟でありながら遊泳術だけで生き残ってきた男で、すでに家康と通じていた。その有楽斎に代わった大野修理もまた、実戦経験に乏しい凡庸な官僚タイプだった。

幸村は軍議で「籠城する前に、まだ徳川の大軍すべてが畿内に揃わないうちに一度打って出て相手を叩く。緒戦を飾ることで、豊臣側に味方したいと思っている全国の侍の決断に火をつけるべきだ」と主張している。しかし、「最初から籠城」を唱える、安全志向の消極型リーダーによって却下されてしまう。

それでも幸村は次善の策を模索。大坂城の南側に出城(真田丸)を築く許可を得た。そこを拠点に、知略のかぎりを尽くして「冬の陣」を戦った。徳川側の戦死者の4分の3は真田丸での戦闘によるものだったほど。この「冬の陣」で将としての幸村の名声は一気に上がった。

「真田手強し」と察した家康は、素早く「信州一国を与えるから徳川の味方に」と幸村を誘っている。だが、幸村は「不利な戦いは承知のうえ。討ち死にを覚悟しているから」と申し出を拒絶した。

この幸村の行動は、豊臣家や秀頼への忠誠心からというよりは、人生のぎりぎりの段階で能力発揮のチャンスを与えてくれた恩義に報いる気持ちによるものだろう。9度山から呼び寄せてくれたことに対する、上司・大野修理への恩義。才能というものは、持っているだけでは意味がない。発揮してこその才能であり、それはストックではなくフローなのだ。

一方、家康は「冬の陣」の和議条件「惣堀(外堀)を埋める」を「総堀」だと言いくるめて大坂城の内堀まで埋めてしまう。それを阻止できなかった無能な人物たちをトップに戴きながら、幸村は諦めずに次々と全力を尽くす。

幸村にとって状況は、まさに現在の日本のように「経済(全体)は駄目。だからこそ経営(個々)はおもしろい時代」だったと言えるだろう。経営者にたとえれば幸村はベンチャー型で、金や地位より「自己実現」に喜びを見いだしていた。幽閉されていた14年の間、腐らず体力を養っていたこともそれを示している。

(構成=小山唯史 撮影=大杉和広)