明治時代初期、初代源蔵は産業構造の転換期に起業家精神発揮
当時、わが国の内政は鎖国が終わり、その反動として尊王攘夷運動が巻き起こるなど、風雲急を告げる状況であった。1868(慶応4、明治元)年、大きな時代の変化に直面する。新政府は王政復古、祭政一致の国家づくりを目指し、神仏分離令を布告する。つまり、天皇中心国家への転換を目指すべく、神社と寺院とを切り分ける政策に出たのだ。神仏分離令は、寺院や仏教的慣習の破壊運動「廃仏毀釈」の呼び水となった。
廃仏毀釈の嵐は古都京都ではかなり厳しく吹き荒れ、多くの寺院が廃寺になり、神社や学校に姿を変えた。さらに当時、京都から東京への首都が移り、明治天皇を追って御所御用達の問屋や市民が東京に出てしまった。東京奠都(てんと、遷都の法令は出ていないので「奠都」という)によって、京都の人口は3分の2まで急激に減ったといわれている。
とくに仏具業は、危機的状況に追い込まれた。一方で、京都再生を期すべく新しい産業の狼煙が次々と上っていく。初代源蔵はいまこそ、産業構造の転換期にあると嗅覚鋭く察知。当時、輸入された教育用機器の修理や整備などを手掛け、そのうち、京都政界との結びつきを生かしながら、さまざまな「発明」を遂げていく。
ロシア・バルチック艦隊撃破の理由は島津の蓄電池搭載の無線機
二代源蔵が心血を注いだのは蓄電池(バッテリー)の研究開発であった。バッテリーは現在ではスマートフォンやパソコン、自動車など生活に欠かせないアイテムである。この蓄電池を明治期にいち早く事業化し、世界各国で特許を取得した。ちなみに二代源蔵は、大正時代に電気自動車をアメリカから輸入し、自社のバッテリーに積み替えて京都市内を縦横無尽に走らせていたという。
島津のバッテリー事業を支えたのは軍需であった。1904(明治37)年に日露戦争が勃発。島津の蓄電池の高い技術に軍部が注目した。そして、連合艦隊の軍艦で使用する無線用電源を提供してほしいと、島津製作所に白羽の矢が立った。
日本の近代史に詳しい人ならばご存じだろうが、ロシアの無敵艦隊バルチック艦隊の動きをいち早く察知し、撃破できたのは無線技術があったからと言われている。
戦果は日本の圧倒的勝利で終わった。バルチック艦隊は36隻のうち33隻が沈没、大破、拿捕という大敗を喫し、日本側は水雷艇が3隻沈没したのみであった。これは島津の蓄電池を搭載した無線ネットワークのおかげであったと言っても過言ではない。仮に島津製作所が蓄電池を提供できずにロシアに敗れていたら……、日本史は変わっていたかもしれない。
この蓄電池は島津源蔵の頭文字をとって「GS蓄電池」と命名された。後に島津製作所のバッテリー事業は独立。自動車用バッテリーでは現在、世界第2位のシェアを誇るGSユアサの前身企業の一社、日本電池として産声を上げている。