レントゲン装置を国内で最初に手掛けたのも島津製作所
また、蓄電池開発の過程で生み出された独自の技術「易反応性鉛粉製造法」は、今でいうスピンオフ製品を生み出した。錆止め塗料の転用を可能にしたのだ。鉛は貝や藻などが毒物として認識するため、船底への塗料はとくに有効であった。海洋生物の船底への付着は艦船の航行の足かせとなり、スピードの低下や燃料を無駄に消費する元凶になる。この塗料も特許を取得。現在の大日本塗料の設立につながっている。
現在、島津製作所の事業の主軸は分析計測機器と医用機器だ。同社の各事業分野に横串を差す技術のひとつが、X線(レントゲン)である。工業用の非破壊検査機器、医療用の検査機器などレントゲン関連製品は「島津スピリット」を今に伝える重要な事業だ。
このレントゲン装置を国内で最初に手掛けたのも島津製作所なのだ。島津製作所には1896(明治29)年、実験初期段階のレントゲン写真が残されている。そこに写し出されていたのは、人物の左手と、メガネケースと、がま口財布であった。
二代源蔵はその後、電源・電圧の改良などを行い、ようやく性能が安定するのが、レントゲンがX線を発見してから、たった10年後の1897(明治30)年ごろである。そして、病院におけるレントゲン装置導入の第1号が、1909(明治42)年に同社が納入した千葉県国府台陸軍衛戍病院(現在の国立国際医療研究センター国府台病院)だ。
バッテリー事業は現在のGSユアサに、そこからスピンオフした塗料事業は大日本塗料に。レントゲン事業は、島津製作所本体に残った。
フォークリフト、マネキン……多くのモノを生み出した連続起業家精神
さらに島津製作所が生んだ企業はまだある。フォークリフト製造で知られる三菱ロジスネクスト、ワコールグループの七彩など国内のマネキン製造会社25社のうちほとんどが、島津製作所を出身母体に持つ企業だ。また京セラや日本電産、村田製作所など売上高1兆円を超える京都の巨大企業も、その創業時には島津製作所となんらかの協力関係をもってきたとされている。
日本は欧米に比べて起業家が育ちにくい風土と言われる。
しかし最近もてはやされている「シリアルアントレプレナー」(連続起業家)の、先駆け中の先駆けが島津創業者父子といえる。こうした挑戦者精神は島津のDNAとして後世に受け継がれ、後の「ノーベル化学賞受賞」へと導かれていく。
近年、「選択と集中」が企業経営の要諦とも言われる。だが島津製作所の場合は、逆に事業を広く、息長く展開させることが独自性ともいえる。
明治期の京都の再生と島津製作所の黎明期の物語は、拙著『仏具とノーベル賞 京都・島津製作所創業伝』(朝日新聞出版)を手に取っていただければ幸いである。