集中術その2 「目標を、あえて一つに絞らない」

棋士への道は、ある意味で東京大学合格よりも厳しい。年間約3100人が入学する東大に対し、棋士になれるのは年間4人。一般的なルートは、棋士養成機関の「奨励会」へ入会することから始まるが、この奨励会には全国から天才といわれる子供が集まってくる。2〜3倍の関門を抜けて奨励会に入会しても、棋士になるにはその中からさらにふるいにかけられる厳しい世界だ。

谷合さんは小学6年生のときに入会試験に挑戦したものの、そのときは残念な結果となり、翌年再挑戦。中学1年生で奨励会に入会した。その後、級位・段位を上げていき、プロになる前の最大の関門「三段リーグ」に参戦したのは高校3年生の後半だった。

まさに大学受験の直前だ。棋士か、東大進学か、どちらかに絞ろうとは考えなかったのだろうか。

谷合 廣紀さん
撮影=森本真哉

「あまり考えませんでしたね。獨協から東大に進学する人はあまりいないのですが、通っていた予備校の先生から『東大狙えるよ』と言われて、それなら頑張ってみようと決めました。苦手な英語を中心に1日に12時間も勉強したこともあったと思います。奨励会の三段リーグがあるのは月2回なので、奨励会の日とその前日は将棋に集中して、ほかの日は受験勉強という感じでした」

谷合さんは現役で理科一類(おもに工学部や理学部に進学する学生が多い)に合格。その後工学部電気電子工学科に進学する。大学では1年生のときの必修科目でプログラミングに出合い、プログラミングにもハマっていく。大学院在学中には『Pythonで理解する統計解析の基礎』という専門書も執筆しているくらいだ。

棋士になれたとき、谷合さんは奨励会の年齢制限ギリギリの26歳だった。もしも大学進学をあきらめ、将棋一本に絞っていたら、もっと早くプロになれたのではないか。

>谷合 廣紀さん直筆の言葉
撮影=森本真哉

「それはわからないですね。もしかしたら、勉強の集中力が将棋にもいい影響を及ぼしていたのかもしれません。高校3年生の後半、まさに大学受験勉強をしていた時期の三段リーグの成績は11勝7敗と勝ち越していたので。そもそも、将棋一本に絞ってしまうと、いつか飽きてしまったときに困るかもしれないと考えていたんです。もともといろいろなことに興味を持つタイプなので、可能性を残しておきたかったんだと思いますね」

将棋の調子が悪くても、大学がある。勉強がうまくいかなくても、将棋がある。そう考えることで、気持ちも軽くなるということだろう。

「年齢制限が近づいてきたとき、多くの人は追い込まれるものなのですが、私はもしもプロになれなかったら、研究に励めばいいかと考えていました。これまでできなかった海外留学でもしようかなと。私の場合は、研究があったので自分を追い込まず、楽観的になれたのかなと思います」

集中術その3 「睡眠時間は たっぷりと」

プロ入り後も生活に大きな変化はないという。研究者として、夜通しプログラミングをしたり論文を読んだりすることもある。将棋にまったく触れない日もあるそうだ。対局が近づくと「締め切りに追われるように」相手の研究を始める日々だ。

「AIの研究をしているときは、基本的に将棋のことは考えないんです。対局の1週間前くらいから、徐々に将棋脳に切り替えていく感じですね。ただ、どちらかに疲れたら、どちらかに脳を切り替えることはあります。どちらも好きでやっていることだから、いい気分転換になるんです」

二足のわらじ生活は、普通の人の2倍の忙しさかと思いきや、そうではなさそうだ。起床時間は決めておらず、睡眠時間は8〜10時間とたっぷりとる。寝不足の頭では、研究や将棋に集中することは不可能だからだ。

「こまかいスケジュールをたてて、一つずつこなしていくようなタイプではありません。日によってAIの研究をする日、将棋の研究をする日と分けているくらいでしょうか。やらなければいけないことがあっても、いつもすぐにエンジンがかかるわけじゃない。そんなときは、やる気になるまで待つだけです。嫌々やっても、いいことはありませんから。どうしてもというときは、締め切りを設定することですね。やらざるをえない状況に自分を追い込むんです」