ツイフェミはあらゆる批判を「女叩き」とみなす

ツイフェミが批判されるのは、「差別」という言葉を濫用して、根拠もなく他者の言動や表現を制約しようとするからであって、「女性だから」「フェミニストだから」という理由だけではない。

しかし彼女たちは、自分たちに寄せられたあらゆる批判を、「女性差別」「女叩き」と読み替えることで、ダメージを無効化してしまう。

こうした被害者ポジションを取れば、加害者である男性だけでなく、社会全体のあらゆる言動に対して怒りを抱くことが可能になる。他者や社会に対して、常に「配慮」「理解」「想像力」を要求する側に立つことができる。

一部のツイフェミは、「私は被害に遭った」という告白をすれば、それだけであらゆる論争に勝利でき、周囲と社会から無限の配慮と慰安を受けることができ、自己肯定感や承認欲求を心ゆくまで満たすことができる、という信仰に近い信念を持っている。これを「被害者原理主義」と呼ぶことにしよう。

自分たちはいつ・いかなる場面においても守られるべき「絶対被害者」であり、男性中心社会における「聖なる犠牲者」である。ゆえに、自分たちの主張は際限なく認められるべきであり、異論・反論を唱えることは一切許されない。

無関心な人でさえ「加害者」となる

こうした被害者原理主義に陥ってしまうと、「被害者/加害者」の二項対立でしか物事を考えられなくなり、自分を直接攻撃してくる相手だけでなく、この問題にコミットしない人、沈黙している人、無関心な人もまた「加害者」である、という認識に染まっていく。

坂爪真吾『「許せない」がやめられない』(徳間書店)
坂爪真吾『「許せない」がやめられない』(徳間書店)

さらに、実際に性暴力や虐待の被害者に対して支援活動を行っている専門職や団体に対しても、「女性をかわいそうな存在、傷ついている存在とみなすこと自体が差別」「救済や擁護の対象として設定すること自体がパターナリズムであり、差別だ」と攻撃するようになる。

被害者ポジションを無自覚なまま取り続けている人は、いつのまにか加害者と同じ言動をするようになっていく。加害者の頭の中は、被害者意識で充満しているのだ。

「禍福はあざなえる縄の如し」という格言があるが、被害者と加害者もまた、あざなえる縄の如く絡み合った存在だと言える。

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